こんにちは。代表の加藤です。
最近、自分の行動を振り返っていて、ふと気づいたことがあります。「あれしよう、これもしないと」と次々に新しいアイデアややりたいことが湧いてくる時。一見すると活動的でポジティブに見えますが、実はその裏側に、巧妙な心理が隠れているのではないか…ということです。
実はこれ、心理学の世界では一種の「回避行動(エスケープ)」として説明がついたりします。
「正当そうな理由」で逃げる技術
人間は、心理的に負担の大きい課題に直面すると、脳がそのストレスを和らげるために、別の「正当そうな課題」を勝手に作り出してしまうことがあります。これを「創造的回避」と呼びます。
私の場合、それが顕著に出るのが「原稿執筆」や「家庭での役割」です。
締め切りが迫った原稿を前にすると、なぜか急に「新しいプログラムの構想」が膨らんだり、仕事の資料整理を始めたりしてしまいます。
また、家の中でも同じです。本当は今日中に済ませるべき家事や、家族と向き合って話し合うべき役割があるのに、「今は仕事が立て込んでいるから」「所謂会の会議の準備があるから」と、もっともらしい理由(煙幕)を立てて、自分への免罪符にしてしまう。
気がつけば、原稿も家事も締め切り間際になって大慌てで取り込む…というのは、お恥ずかしながら私の「よくある日常」の一コマです。
夢想の中に逃げ込む「万能感」
なぜ、私たちは本題を後回しにして「あれこれ」に手を出したくなるのでしょうか。
新しい計画を立てている間は、私たちは「何でもできる自分」という万能感に浸ることができます。可能性の中にいる間は、傷つくことがありません。
一方で、目の前の手間のかかる原稿を書くことや、日々の家事をこなすことは、自分の限界や「停滞している現実」を突きつけられる作業でもあります。
新しい「やりたいこと」を思いついた瞬間に放出されるドーパミンは、向き合うべき不安や面倒くささを一時的に忘れさせてくれる「心の麻薬」のような役割を果たしているのかもしれません。
煙幕を払って、今ここに向き合う
「やりたい」というエネルギーは、活動の原動力として素晴らしいものです。しかし、それが「本当に今向き合うべきこと」から自分を遠ざけるための煙幕になっていないか。
私は時々、自分自身にこう問いかけるようにしています。
「もし今日、新しい『やりたいこと』を一つもやってはいけないとしたら、自分は何に一番囚われ焦りを感じるだろうか?」
今、複数のことに目を向けているのは、一つのことに集中して「現実の結果」が出てしまうことを怖がっているからではないか。
こうして自分の心の癖を観察し、等身大の自分を認めることは、支援の現場に立つ人間にとっても、一人の夫や父としても、大切なセルフケアだと感じています。
さて、このコラムを書いている間にも、まずは溜まった作業を片付け、それからあの「後回しにしていた原稿」に腰を据えて向き合わなければならない現実。
神様、私にやり遂げる力を与えてください。
