条件が揃えば、人はどんな振る舞いもしてしまう。
親鸞聖人の『歎異抄』に、「さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもすべし」という言葉がある。さまざまな縁が重なり、条件さえ揃ってしまえば、人間はどんな振る舞いだってしてしまうという意味だ。
私はかつて激しい薬物依存症に苦しみ、現在は薬物依存症者の回復支援施設「ダルク」の代表を務めながら、保護司として罪を犯した人たちの更生にも携わっている。この「さるべき業縁」という視点は、私たちの回復の根底にあるものと完全に響き合っている。
どんなに真面目で立派な人でも、環境や極限状態が変わってしまえば、よからぬ行動をとってしまう危うさを秘めている。もし明日、社会から完全に食べ物が消え、目の前に他人の食べ物があったとき、私たちは手を触れずに餓死することを選べるだろうか。極限状態において、人間の「強い意志」など、本当に脆く役に立たないものなのだ。
薬物は「死ぬため」ではなく「生き延びるため」だった
なぜ、薬物を使って人を裏切ったり、騙したりするような生き方になってしまうのか。その背景をもう一歩引いて見てみると、多くの当事者が幼少期に孤独、疎外感、生きづらさ、心の痛みを抱えていたことが分かる。
中学生までの家庭内暴力や虐待、ネグレクト、いじめといった「逆境小児期体験(ACE)」を持つ割合は、ダルク利用者への調査でも7割を超える。さらに、半数以上が実際に死を考えたり、未遂に及んだりした経験を持っている。
私もかつて、在日朝鮮人として生まれたことへの差別やいじめ、複雑な家庭環境から社会を恨み、「命は平等ではない」と絶望していた。20代の頃は精神病院への入退院を15回も繰り返し、何度も自殺未遂を図った。
依存症の当事者たちは、一気に命を絶つのではなく、薬物を使って少しずつ自分の命を削りながら、なんとか今日の絶望を生き延びているのだ。
今の令和の時代に流行しているのは、覚醒剤や大麻以上に「市販薬(オーバードーズ)」や処方薬の乱用である。夜の繁華街に集まる若者たちは言う。
「これがなければ自分はもう自殺している。これでなんとか生き延びているんです」
これを「悪いことだから」と無理やり取り上げてしまうと、心の支えを失った子どもたちは自ら命を絶ってしまう。だからこそ、関わり方には非常に繊細な「ソフトランディング」が求められるのだ。
脳の条件反射──「梅干し」を見て唾が出るように
依存症は、根性や意志の問題ではなく、脳の報酬系という部分の機能障害(混線)であり、糖尿病などと同じ慢性疾患だ。一度なってしまえば、完全に元通りになることはない。しかし、「使わずに新しい生活を維持していく」という回復の形はある。
依存症のメカニズムは、「梅干しとレモン」の関係に似ている。塩が吹いた真っ赤な梅干しの写真をパッと見ただけで、口の中にじわっと唾液が出てくる。これは病気でも障害でもなく、過去に梅干しを食べて「酸っぱい」と知っている脳の正常な学習・条件反射だ。
薬物依存症の人にとって、注射器や薬物に関連する道具、場所、さらには「寂しさ」や「イライラ」といった感情は、この梅干しと同じ役割を果たす。
【脳内の電気信号の変化】
・健康な人のストレス対処:[辛いこと] →[友人に相談・趣味で発散]
・依存症の人のストレス対処:[辛いこと] →[薬物を使用する](電気信号の線が太くなり、他の選択肢が消える)
かつて覚醒剤を使っていた人が、注射器の映像を見ただけで手が震え、心拍数が跳ね上がる。脳が勝手に「薬が来るぞ」と準備を始めてしまうのだ。これは本人の意志よりも遥かに深いところで起きているパブロフの犬と同じ条件反射であり、周囲が「まだそんなことを考えているのか」と叱責するのは、梅干しを見て唾液を出している人を怒るのと同じくらい無意味なことなのである。
人間関係の買い替え──古いテレビを捨てるタイミング
支援の現場ではよく「悪い人間関係を断ち切れ」と指導される。しかし、人間関係を断ち切るというのは、テレビの買い替えと同じプロセスであるべきだ。
家のテレビの映りが悪くなったとき、まず古いテレビをゴミ捨て場に捨ててから、何もない部屋で新しいテレビを買いに行く人はいない。まず家電量販店に行って新しいテレビを買い、それが家に届いて設置されてから、初めて古いテレビを処分するはずだ。
人間関係も全く同じである。「悪いから」といって今ある関係をすべて捨てさせてしまったら、その人は「孤独」という一番の猛毒に耐えられなくなる。昔の仲間との関係がまだ残っていてもいい。それ以上に、「ここにいてもいいんだ」と思える新しい健康的な人間関係(居場所)を先に作ることだ。その新しいつながりの中で安心感を得られたとき、彼らは初めて、自らの意志で古い人間関係を手放していくことができるようになる。
エアコンのスイッチを押すように、「他力」に委ねる
私が自分の人生を完全に諦めていたとき、唯一私を快く受け入れてくれたのが、ダルクにいる当事者の仲間たちだった。私の酷い過去を一切否定せず、「よく来たね」とそのままの私を受け入れてくれた。
自分の中にはなかった新しい健康的な考えや温かい気持ちが、仲間の対話を通じて私の中に入り込んでくる。自分一人の意志ではなく、仲間の言葉や存在という「外からの力」によって生かされ、薬物が止まっていく。これこそが、まさに「他力本願」そのものの体験だ。
私はよく、ダルクの仲間に「ハイヤーパワー(偉大な力)や仏様は、エアコン(クーラー)のスイッチと一緒や」と説明する。
部屋が暑くてしんどいとき、リモコンのスイッチをピッとおす。なぜ冷えるかの仕組み(電気やフロンガスの原理)を1から10まで知らなくても、私たちは涼しい風の恩恵を味わうことができる。同じように、「助けて」とつながりを求めることで、私たちは生かされ、癒されていくのだ。
現在の世界の支援の潮流は、「処罰からハームリダクション(害の低減)」へと大きく舵を切っている。「痛い目に遭えば凝りてやめるだろう」というアプローチは、依存症の現場ではほぼ役に立たない。何度も繰り返される罰は、人をただ絶望させるだけで、生きる力にはなり得ないからだ。
正しい正論を突きつけて相手を排除するよりも、他愛のない会話を通じて、対象者が「この人は安全な人だ」と思える関係を築くこと。ダメなものを禁止するより、「シラフの人生をいかに楽しむか」という希望の選択肢を一緒に作っていくこと。
みんなが一律のスーツを着て更生するのではなく、その人らしさを大切にしたオーダーメイドの回復をサポートすること。私の波乱に満ちた過去の業縁も、今誰かの回復の役に立つのなら、それは私自身のやめ続けていく大きな希望そのものなのである。
