薬物依存者のこうじです。

私は3人兄弟の末っ子になり、長男である兄と、双子の兄がおり、私はその双子の弟にあたります。
私がNAに繋がったのは、2021年4月〇日に刑務所から出所して、現在いる木津川DARC の仲間に加古川刑務所に迎えにきてもらい、入寮した時です。刑期は8か月と短い受刑生活でしたが、私にとっては初めての経験であり、非常に辛い生活でした。

私が入寮するきっかけとなったことを振り返ると、約30年間続けていた美容師を辞め塗装の仕事をすることになり、当時は離婚をした直後で、子供と離れた生活の寂しさ、慣れない仕事、上司との関係で、ストレスを抱え、精神・体力ともに疲れ果てていました。そのストレスを解消するために、仕事で使っているトルエン(シンナー)を吸うようになっていきました。
トルエンを使うようになった半年間、人にも相談などせずに、一人で悩みを抱え込み、どんどん病気が重症化していきました。年を取ってからの再使用で、人生も諦めかけていた、そんな考えでは、到底、シンナーが止まることもなく、泥沼にはまっていくスピードはあっという間でした。

「シンナーの使用で実刑?」とびっくりされる方々もおられるとは思いますが、約6か月の間に5回の逮捕となり、執行猶予中の身分でありながら、同様の過ちを繰り返してしまい、服役をすることとなりました。留置場・拘置所にいてる間に、親と長男である兄がわざわざ面会に来てくれたり、手紙のやり取りもしておりました。その間に、出所後にはDARCに入寮する話を進めていましたが、自分の気持ちは、決心することができなくて、もう一度社会で生活する話を持ち掛けてみました。ところが、もちろん親は反論しました。後日、双子の兄が面会に来てくれて、「DARCに入寮したほうが良い。俺を信じて考え直せ。」と言われました。その時それまで迷っていた気持ちは、一気に決心へと変わっていきました。

実はその双子の兄も薬物依存からの回復者であり、過去にDARCに入寮して生活していた経験があるのです。その頃から、月に4回の手紙のやり取りで、励まされ、勇気を与えてくれて、悩みや不安は、少し和らいでいました。まだ判決は決まっていない状況ではありましたが、刑務所に行く覚悟を決めることができました。刑務所に移送されてからも、双子の兄との手紙のやり取りは続けていました。時には、説教じみた内容の手紙もありましたが、精神を鍛えられ、すべてを前向きに捉えて、受刑生活の辛さを乗り越えながら生活を送っていました。8か月の刑期を終え、出所する日が来たのですが、普通なら社会に出れる喜びがあるかと思いますが、当時の私は、「本当に出所して良いのだろうか?」「刑期が短か過ぎたのではないだろうか?」と感じていました。
思ったより精神面が、強くなっていませんでしたし、本当に薬物を止めていけるのか、不安に感じていたからです。出所当日の天候は雨でした。。。傘をさして刑務所の門を出ました。

その一歩目は、今でも忘れることはなく、強く踏みしめ、新しい人生の第一歩として、歩みだしましたのを今でも覚えています。駐車場に目をやると、DARCの仲間が迎えに来ていて、足早に歩み寄り、挨拶をした時にふと思いました。「俺はこれで助かった。」その時の事は、雨が降るたびに今でも思い出します。
決して悪い意味ではなく、忘れてはいけない当時の感謝とやり直す気持ちでいたということを…
施設に到着するし、施設長と他の仲間が、温かく迎え入れてくれた時には、ホッとしたのを今でも覚えています。

以前、長い間、美容師として勤めてきた後に塗装業という仕事に変わり、男性ばかりの職場に対してのトラウマがあったので、「仲間と上手いことやっていけるだろうか?」と思っており、施設で生活していく上での1番の悩みとなっていました。今では、すっかり施設に馴染んで生活しており、他の仲間とも良好な人間関係を築いていけています。

施設のプログラムとして、朝・昼・夜の3ミーティングで、夜はNAミーティングでしたが、当時はコロナ感染防止対策の為や、緊急事態宣言発令中というさなかで、NA会場は休止しており、オンラインによるZOOMミーティングで参加することになっていました。はじめは、出所したばかりで、身体的にも疲れており、会場に足を運ぶより、ZOOMミーティングの方が良いように感じておりました。数週間も経過すると、施設で缶詰状態にも飽きが来て、退屈に感じるようになって行き、早くNA会場に行き、ほかの仲間との分かち合いがしたくなってきました。少し木津川DARCでの生活にも慣れてきて、ミーティングでの仲間の話にも耳を傾け、共感できるようになって行きましたが、ZOOMミーティングでの発言は、まだまだ自分から進んで話する状態にはなっておらず、どんな内容の話をしたら良いのか分からず、恥じらいを感じ、聞くだけの分かち合いになっていました。

初めてNA会場に行ったとき、半月ほど遅れて、ONE DAYのキータッグをもらいました。手にした瞬間、お守りのように感じました。1・2・3・6・9か月、1年とクリーンタイム(断薬期間)を継続していると色々なカラーのキータッグがもらえるのですが、ただ単にクリーンで過ごすのではなく、次なる目標が目の前にあることを、実感することができて良い事だと思いました。

私は本文を書いている翌月、4月〇日で1年のクリーンタイムを迎えることになります。長いようで、短かったようにも思えています。それだけ、仲間との関わりにぎこちなさや、トラブルが少なかったし、悩みや不安な思いを分かち合えたお陰だと思っています。

しかし、1年を迎える前の、この1か月が長く感じてしまうようにも思っています。先ゆく仲間の話で、1年のクリーンタイムを迎える直前に再使用してしまうことがあることを、よく耳にしたりすることがあります。油断することと、慣れてしまうことが、この病気の怖さだとも思っています。
自分の今までの人生でも、「後もう少しで目標に達する」とか、「手に入れることができる」とかと言うところで、足元をすくわれる事が何度かありました。そうならないために、無事に1年のクリーンタイムを迎えるためにも、”平安の祈り”を毎日祈り続けることを忘れないようにして行きたいと思っています。
冒頭で、私の双子の兄も薬物依存者でDARCにて回復をしてきたと書きましたように、同じ回復の道を歩んでおります。兄の方が、先ゆく仲間として約20年前からDARCに入寮し、NAに繋がっており、現在は施設を退寮して次なる生活へと進んでいます。

私も同じころには、薬物に依存していましたが、運よくパートナーを見つけ、結婚生活をしていたことにより、横道にそれずに暮らすことが出来ていました。
しかし、私の人生は、波乱万丈で、結婚・離婚と3度繰り返し、なかなか幸せな人生というものではありませんでした。
唯一、仕事は美容師を続けられていたことで薬物から離れられることが出来ておりました。今回は離婚と失職が同時に起こってしまい、薬物依存という病気の芽が出てしまいました。DARCやNAに繋がり、自分の無力さを自覚することが出来ましたし、自分には薬物以外にもアルコール・ギャンブル依存等の傾向があることを知ることが出来ました。

新しい生き方をまだまだ、模索中でありますし、回復の道を歩み始めたばかりで、不安はつきまとうと思います。決して1人では回復できない病気だと、知ることも出来ました。
先々、退寮して社会復帰をしたとしても、NAには繋がり続けて行かなければ回復し続けることが出来ないと思っています。一生涯、背負っていかないといけない病気という事も自覚し、残りの人生を悔いのないように生きていきたいと思っています。
最後まで、読んでいただきありがとうございました。共に平安でありますように祈っております。

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ケンタロウの経験談

初めまして。依存症のケンタロウです。この施設に繋がって1年10か月になりました。クリーンタイムも同じく1年10か月になります。

覚醒剤をはじめて使用してしまうまでの経過とDARCに繋がり現在に至るまでのお話しをさせて頂きたいと思います。

自分が小学生だった頃は、活発で野球好きな少年でした。小学校2年生の頃から野球チームに所属し、中学1年生になるまで野球を続けていましたが、だんだんと思春期に入り、坊主頭が嫌になり、大好きだった野球を辞めてしまいました。

その頃から、不良友達と付き合うようなり、タバコ・パチンコ・シンナー等を覚えるようになって行きました。勉強は比較的出来た方だと感じており、高校入試も無事に合格し、全寮制の高校に進学する事となりました。高校では彼女にも恵まれましたが、学校を休んではパチンコに明け暮れる日々を送っていました。その結果、高校を中退することになってしまいましたが、当時の彼女に「高校だけは卒業しておいた方が良い」と言われ、別の高校に編入学をすることとなりました。高校をちゃんと卒業しようと決意し、入学したのですが、その高校で知り合った同級生に大麻を勧められてしまい、初めて大麻に手を出してしまいました。ですが自分には合っていなかったのか、大麻の連続使用に至ることはありませんでした。

高校を無事に卒業した後、無事に泉佐野市の某会社に就職することになりました。その会社には2~3年勤続していたのですが、高校時代の彼女との別れのせいもあり、ショックで労働意欲が湧かなくなり、退職することになりました。その頃、よく遊んでいた友人の先輩が覚醒剤を使用する人で、何度か覚醒剤を勧められましたが、「覚醒剤だけには手は出したらダメだ。」と思っていた自分は何度も断り続けていたのを覚えています。しかし、そんな日々は長くは続かず、ついに覚醒剤を使用してしまう日が来てしまったのです。これが20歳の時です。初めて覚醒剤を使用した時、2~3日眠れずにいたのを覚えています。次第に覚醒剤にハマって行ってしまうのです。最初は先輩からもらう覚醒剤で足りていたのですが、次第に使用する量が増えて行ってしまい、ついには自分で覚醒剤を密売人から購入するにまでなって行きました。そういう生活を5~6年続けていました。覚醒剤は使用していたものの、仕事だけは真面目にしており、その某会社で後に結婚することとなる、女性と出会うことになりました。

その女性の妊娠をきっかけに結婚することになり、初めて家庭を持つことになりました。その後、3人の子供にも恵まれ、計4人の子供と6人家族で生活をすることになるのですが、3人目の次男が生まれた後、人生で初めての逮捕を経験することになりました。初めての刑事裁判を経験し、判決は1年6か月の懲役・執行猶予3年の刑を言い渡されました。その後7年後には再び覚醒剤取締法違反の罪で逮捕され、初めての懲役・刑務所を経験することとなりました。1年2か月後に懲役刑を終え、社会復帰することになるのですが、再び覚醒剤の使用が始まり、この頃には毎日、朝・昼・晩と頻繁に使用する様な状態になっており、依存症という病気は悪化の一途を辿っていました。かろうじて離婚には至っていなかったものの、夫婦喧嘩は絶えず、常に覚醒剤のお金を段取りすることに追われていました。日常的に妻に嘘をついてお金を工面したり、消費者金融からの借金で覚醒剤を購入したり、最終的には覚醒剤の密売人から覚醒剤を奪い取るなど、とても正気とは思えない行動や言動を平気で繰り返していました。その後、ついに妻と覚醒剤のお金のことで大喧嘩にまで発展し、私は自宅を飛び出て、和歌山県の実家にて生活をするようになって行きました。そんな時、妻から離婚調停を家庭裁判所に申し立てられてしまい、養育費の未払い等の件で、私が勤めていた会社の給料を差し押さえられるまでになってしまいました。この件で、勤めていた会社には勤めづらくなり、退職を余儀なくされました。「どうにでもなれ」と自暴自棄に陥ってしまい、ますます覚醒剤の使用が止まりませんでした。そんな矢先、大阪市天王寺区まで覚醒剤を購入しに行った、その帰り道、コンビニの駐車場で覚醒剤を使用していたところ、巡回中の警察官に職務質問され、3度目の逮捕を経験することになってしまいました。当然、刑事裁判になりましたが、前回の逮捕から約9年半の期間が空いていたために、実刑は免れ、懲役2年6か月・執行猶予5年の判決をもらう事が出来ました。

当時、担当の弁護士からは「執行猶予を取れるかどうか、半々です。」と言われており、少しでも裁判の情状を良くするために、母親の勧めもあり、富田林市にあるY精神病院に任意入院をすることになりました。3か月間の入院生活を送り、その間に薬物依存症からの回復プログラム(条件反射制御法等)を受けてましたが、覚醒剤を止める気持ちは全くありませんでした。退院の日が近づく中、ある方の紹介もあり、群馬県にある藤岡DARCに入寮することになりました。入寮生活は自分にはかなり厳しいもので、毎日の生活がとても苦しかったのを覚えています。「ここでの生活は自分には無理だ」と、思った私は、友人に連絡をして迎えに来てもらい施設を脱走することを計画しました。友人の助けもあり、脱走計画は成功するのですが、母親のいる実家に戻るも、家には入れてもらえず、母親から「木津川DARCの加藤さんに連絡しなさい。」と言われました。私はDARCに行くのはとても嫌でしたが、行き場所もなく「懲役に行くよりマシだ。」と思い、母親と一緒に木津川DARCを訪問しました。加藤さんとの相談の結果、入寮することになりましたが、その時も覚醒剤を止める気持ちは全くありませんでした。

しかしこんな私にも転機が訪れます。入寮生活を送って半年が経過しようとしていた頃、「もしかしたら、こんな自分でも覚醒剤を止めることが出来るかもしれない。」と感じるようになってきました。現在、木津川DARCにお世話になって約1年10か月の月日が経過しました。この間、色々な仲間との出会いや別れを経験してきた訳ですが、仲間の中には自身の都合で施設を自主退寮して行き、無事にクリーンで過ごしてる仲間は非常に少なく、「自分も途中で退寮したらスリップしてしまうのかなぁ?」「今までの苦労を無駄にはしたくない。」と思う気持ちが強く、今日まで施設生活を頑張ってこれたように思います。現在の木津川DARCはお陰様でプログラムに前向きな仲間が多く、1日3回行っているミーティングも充実しており、薬物依存症からの回復を実践していくにはベストな施設だと思っています。そろそろ、就労プログラムに入るかどうかという時期に差し掛かっておりますが、特にやりたい仕事も見付かっていないのが現状で、将来何の仕事に就職しようか?と考えている、そんな時期でもあります。以前の自分では就労は愚か、断薬すら実現できませんでしたが、周囲にいてくれる仲間のおかげで、就労が現実的なものになろうとしています。

約1年10か月の間、薬物は止めることが出来ておりますが、決して自分には簡単な事ではありませんでした。止めたい日もあれば、使いたくて仕方のない日もありました。断薬はずっと止め続けることを考えてしまうと、とても辛く苦しいものになりがちですが、DARCに繋がり「今日だけ」という言葉を教えて頂きました。

何年・何十年先のことを思い悩むより、今日という一日に集中する。その積み重ねがやがて何か月・何年という単位のクリーンなっていきます。そのことをこれから先も忘れることなく、仲間と共に回復の道を歩んで行こうと思います。

最後まで、読んでいただきありがとうございました。

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喜びを仲間たちと分かち合って回復

はじめまして、薬物依存者のジュンペイです。

木津川ダルクに入所し回復プログラムに取り組みはじめて11月2日で9か月になります。

木津川ダルクを知ったきっかけは今回の事件でお世話になった弁護士さんの紹介です。前刑から一年と経たない中、覚醒剤を再使用しました。そのことを両親に打ち明け結局自首することとなり、その時に薬物依存者の治療やリカバリーに積極的に取り組まれている弁護士先生に紹介していただき入所することになりました。

薬物使用をするまでの経緯をお話しします。僕は両親や兄弟を含めた7人家族の中で育ちました。外から見ると一般的な家庭だったと思います。何不自由なく育ってきたように感じていましたが、いわゆる機能不全家族という家庭の中で育ってきました。食事はそれぞれがそれぞれのタイミングで食べており、会話もなく両親や兄弟と遊んでいた記憶もほとんどありません。気づいたら一人家族の団欒や暖かさを知らずに大きくなりました。知らず知らずのうちに他人に相談するという事をしなくなっていました。怒られないようにいつも周りの表情や顔色を気にして、大きな声や音がするとびくびくしながら過ごし、自分がここに居ていいのかわからない、そんなことを思い続ける日々を過ごしていました。

僕はセクシャルマイノリティなのですが小学校5年生ぐらいから自覚するようになりました。男らしさの押し付けや偏見、差別が怖かったので本当の自分を隠して周りと接するようにしていました。セクシャルマイノリティであることを自覚してから自分は世間一般とは違う、周りのみんなと違う、結婚して子供を作って親を喜ばすことが出来ない、役立たずな人間だと思い始めました。そして中学2~3年のときから居場所を求めて出会い系サイトにのめりこんでいきました。学校ではとりあえず友達を作り真面目に勉強や部活をし、親を安心させそのストレスや不安感を出会い系サイトで男性と出会うという行動を取ることで解消してました。高校~大学もそういった日々を過ごしました。自分のために生きていたのではなく、親の世間体を良く見せるために生きていました。

覚醒剤を使いはじめたのは23歳のころです。持病の関係で大学を1年遅れで卒業し、介護関係の職場で働き始めて半年ぐらいたった時に初めて使用しました。RUSHという同性愛者の間で流行っていた当時は合法だったドラッグを使ったことはありましたが違法薬物は初めてでした。なぜ使用したのかというと、インターネット等で気持ち良いSEXができると知ったからです。使いはじめた当初はこの世に無いような快感を味わえていたし、うまく使えていると思えていましたがそんな日々は長く続きませんでした。真面目にしていた仕事で手を抜くようになったし、自分勝手になって自分のミスを他人のせいにすることが増えていきました。介護施設の入居者に対しても傲慢で横柄な態度をとるようになっていました。会議などでは口先だけの綺麗な言葉を並べあたかも自分は立派でかっこいいと勘違いするようになり、スピリチュアル面が悪化し続けていたことに気づいていなかったのです。月1回くらいのペースで薬物を使い続けていたのですが、次第に仕事だけでなく友人に対しても自己中心的な言動をするようになり、覚醒剤を使うために友人との約束をドタキャンするようになったり友人の輪から自ら離れていったと思います。勤めていた介護施設は2年で辞め、国家資格を取るための専門学校に通い始めたのが26歳の頃です。親に色々な理由を言ってそのお金も出してもらいました。しかし本当は大阪市内に住んで覚醒剤がもっと身近にある環境で生活をしたかっただけでした。覚醒剤を使い続けながらも4年間勉強を続け国家資格を無事に取ることが出来ましたが、精神面やスピリチュアル面は悪化し続けました。

30歳で専門学校を卒業し働き始めて4か月ほどしてから1回目の逮捕をされました。仕事に行こうと思ったときに警察に囲まれ、母親の目の前で逮捕されました。その光景は今でも脳裏に焼き付いています。1回目だったので執行猶予を頂きました。裁判の情状をよくするためにダルクや精神病院、ミーティングに通うと約束したものの一切行かず自分の力だけで覚醒剤を止めてやる、と思っていました。もちろん覚醒剤への欲求は止まりませんでした。6か月ほど止まっていたのですが、仕事のストレスや家族や友人と過ごしていても消えない孤独感から覚醒剤を再使用しました。再使用後は使うのを止めれず毎週末使うようになりました。最後に使用した後、幻覚や幻聴が酷くなり親に再使用を打ち明けると警察への自首を促され、父親の車に乗せて行ってもらい出頭しました。執行猶予中の再犯なので刑務所に行くことは分かっていましたが、そうでもしないと覚醒剤を止めることができないと思っていました。2回目の逮捕で担当になって頂いた弁護士さんに精神科病院に入院後、木津川ダルクを紹介していただき入所することとなりました。

入所当初は心も開けずやる気満々ではなく、『仲間』と呼べる人はいなかったと思います。世間話は出来ても本音を話せる存在はいなかったし作ろうとしませんでした。自分はセクシャルマイノリティだし受け入れてくれなったらどうしようという怖さや不安な気持ちが強かったです。木津川の仲間たちと出会って感じたことですが、自分はここに居て良いんだ、という感覚が芽生えてきたことです。今まで仕事や住む場所、パートナーをとっかえひっかえしては自分の居場所を見つけ出そうとしてきましたが結局見つかりませんでした。覚醒剤を使ってSEXをしてもその瞬間の快楽はありましたが、居場所は見つかりませんでした。それが木津川に来て仲間と共に生活しプログラムを受け続けることで居場所が見つかりました。ミーティングやNAに出続けて半年くらい経ってから次第に自分自身のことを話せるようになった気がします。またその中で自分が薬物依存症であり覚醒剤を止めたい事を願っている事にも気づき始めました。木津川の仲間たちは自分以上に挫折をしたり悩んでいたりしていて、自分だけが悩んでいたのではなかったんだと思いました。

プログラムを実践して気づいたことはありのままの自分でいていいんだということ、そして覚醒剤を止め回復していくためには仲間の存在が必要なんだという事です。このプログラムに繋がる以前は覚醒剤の欲求と戦い打ち負かすことで薬物を止めれるんだ、と思っていました。自分が薬物依存症であることを認めることが出来ていなかったし、覚醒剤を使いたいなどとは誰にも言うことが出来ませんでした。しかしプログラムを実践していて感じたことは使いたいという欲求が出たときは正直に相談することができるしそれをフランクに聞いて笑い話にしてくれる仲間が居るという事に気づきました。そして薬物依存症は意志の力ではどうしようもならないということに気づき始めました。欲求が出てくるときもありますがそれでもその日一日使わずに生活をすることができています。今まではこれからのことやまだ起こってもいない未来のことに対して不安を抱くことが多かったのですが、『今日一日』という言葉を知ってからはその日一日、目の前のことに取り組んで行くことで自分と向き合うことが出来るようになってきたと思っています。

今はクリーンが続いてようやく9か月というところです。長かった裁判も10月に終わりました。残念ながら実刑判決となりこれから矯正施設に行くことが決まっているのですが、ネガティヴな感情はあまりありません。回復を分かち合ってきた仲間の存在があり、そしてこの仲間の輪の中に戻って来たいと強く願っているからです。また自分自身が回復しているかどうかの自信はありませんが、覚醒剤を使わずに生活をできている事、仲間と笑い合って生活を送ることが出来ています。小さいころからずっと孤独を感じて生きてきましたが、それも無くなってきているように感じています。好きな人に好きと言えるようになったし料理もできるようになったし、些細なことで楽しさを感じることが出来るようになりました。それは自分一人の力では絶対に出来なかったことだし、仲間の存在やサポートがあったからだと思っています。そうやって自分が変われてきたことに感謝の気持ちでいっぱいです。これからもこの喜びを仲間たちと分かち合って回復に取り組んで行きたいと思っています。

最後になりましたが楽しい時もしんどい時も仲間の輪の中で過ごしてクリーンを続けていくことができたらいいな、と思っています。ここまで読んでもらってありがとうございました。