ふしみ人権の集い(2009)

1. DARC(ダルク)とは
 (1) 活動
最初にDARCという施設をご紹介し、それから、僕自身の体験をお話させていただきます。
薬物を使ってきた話、その中で起きたこと、DARCとの出会から回復への道、薬をやめていくときに必要だったこと、力になったことなどをお話していきたいと思います。
最後に、ご家族の方、地域にどんなことができるか、地域から薬物の問題を小さくし、なくしていくのに何が有効なのかという話を皆さんと一緒に考えられる機会にしたいと思っています。
DARCという名称は(Drug Addiction Rehabilitation Center)の頭文字をとっています。薬物依存症リヒバリテーションセンター。足を骨折した人が、ある時期はギブスをはめて入院治療を行います。その後に骨はくっついたけれど、走ったり、歩いたりすることがままならない。そのためには最初、伸ばしたり、曲げたり、マッサージをしてリハビリをする。時間をかけ、またかつてのような動きができるようになるまでリハビリを続ける。薬物依存者の回復過程もまさに同じです。薬を使い続けていく中で生きる力や能力、普通に生活をすることが困難になったり、心身が壊れたりしている。それをもう一度、取り戻し、社会に戻り、暮らしていかなければならない。その回復の場所として、DARCが始まったわけです。
DARCは、25年ほど前、近藤恒夫氏によって創設されました。近藤氏は、それ以前に、覚醒剤使用の罪で逮捕され、裁判にかけられていました。また、精神科病院の入退院も経験し、自分ひとりの力だけでやめていくのが困難だと思っていました。その気持ちを裁判の場で正直に話をしたのです。裁判長に向かい、「私は自分の力で、覚醒剤がやめられるとは思いません。ですからどうか、刑務所に入れてください」。そういったのです。その時、傍聴席にはキリスト教のロイ神父という方がおられて、もう亡くなられましたが、ロイ神父は近藤氏をサポートしていく約束をその場で、裁判長にしたわけです。面会も重ねておられました。結果、判決は執行猶予。近藤氏はロイ神父に引き受けられて社会の中で回復し生きるチャンスをもらったのです。彼はそれから、ロイ神父がやっておられたアルコール依存症の施設(マック)の仕事を手伝いながら自らも覚醒剤をやめ続けていくために酒も飲まない生活を始めたのです。
アルコール依存症の人たちの中で薬物依存症は自分だけ。「アルコール依存症はよくなるけど薬物依存症はよくならないよ」、回りの人たちからは、そう言われていたようです。近藤氏にしてみれば、それは自分たちの居場所がないからだと…。
数十年前、昭和30年くらいに断酒会ができました。その後、アルコール依存症の施設ができていく。病院にもアルコール病棟ができたりしていくわけです。当時、アルコール依存症の人たちも飲んだくれとか、どうしようもない奴と見られていたわけです。でもアルコール病棟ができて治療が進み、回復していく人たちが出てきて始めて、アルコール依存症は回復できると思われるようになっていきました。
まだ近藤氏が薬物依存だった頃、薬物依存症者に対する世間の目は冷たく、「人間やめるか、覚醒剤やめるか」というキャンペーンまである中、どこにも居場所がなかった。薬物依存症者は煙たがられていたようです。だからこそ、自分たちの居場所がほしかった。自分たちのような薬物依存者が安心して回復できる場所、そして、安全に暮らせる場所が。そこで、ロイ神父さんに相談して資金の提供を受け、東京で一軒家を借りてDARCを始めたのです。
全国から、どうにもならないようなシンナー少年や、暴力団から抜けてきた小指のないシャブ中たちが、DARCの玄関先に置いていかれるというような感じで施設が始まりました。最初はルールもたくさんあったようです。10カ条のように書き出して張られたDARCのルールがあったのですが、誰も守らない。守らないから腹が立つ。利用者と近藤氏が喧嘩になる。そのことに疲れ、「やめる。ルールはなしや。ルールを破り捨てて、3回のミーティングだけには出てくれ。ここにいる条件はそれだけでいい」。そういう施設の運営のやり方に変えたのです。それが効を奏したのか逆に自分たちなりのルールができていき、薬を使ったり、ルールを破ったりする人が減ってきた。ルールを少なめにすることで、自分たちが自主的に役割を決めて活動していくという形になっていきました。
ミーティングで正直になること、それがDARCの基本ルールとなっています。20数年たって、全国に50カ所くらい施設ができました。僕は他の施設長の本名もきちんとは知りません。近藤氏が統括してピラミッド型に全国のDARCがあるわけではない。それぞれの地域で回復した仲間がいろんな支援者たちの協力を得て、その土地、土地で、できる形のDARCをつくってきた。全国の50カ所のDARCは横につながっているのです。全部がグループのメンバーのような形でつながっていまして、時には一緒に研修会をやったり、ソフトボール大会をしたりします。
時に利用者が、この町で回復するのは難しいから、違う土地でやってみようと提案したり、京都DARCの定員が今一杯です。相談者が来ても、入ってもらうことができない。そんな時、「秋田の施設なら空いているようだし、受け入れてくれるならそちらでやってみますか」と相談者に提案したりします。この前も一人のメンバーが京都から秋田の施設に移りました。夕方、京都駅0番ホームから特急日本海に乗り、向こうには明け方5時過ぎにつくのですが、まだ夜の明けきらないホームには、すでに、向こうのスタッフが迎えに来てくれています。そんな時、横のつながりをもつDARCの存在を頼もしく、ありがたいと感じます。
全国のDARCが全く同じようなプログラムややり方をしていて、一回失敗(薬の再使用)をしたら、もうだめだということではない。やり直す意思さえあれば、何度でもやり直しがきくという形で活動しています。
薬物を使うことはだめなことですが、人間ですから失敗は起きる。だから、時に施設を変わりやり直すことには意義がある。一回、失敗したらもうかかわらないのではなく、また、そこから必要な支援を考え、かかわっていくという形でやっています。それが「DARCは薬物を使うことを容認している、匿っているのではないか」と言われたりもすることがあるのですが、決してそういうことではない。やめたいという仲間の手助けをするだけ。たとえ、失敗しても、「もう一度やってみたい」とその人が言えば受け入れる。逆にその人が「使いたい、ほっといてくれ、出ていく」といえば、僕たちはそれ以上、強制的にプログラムを受けさせることはしない。そういう意味で、薬物をやめたいと願う人たちの手助けをすることに重きを置く、ごくシンプルなプログラムを続けています。
京都DARCは5年前にできまして、出羽屋敷町に、ここから近くなのですが、一軒家を借りしてスタートしました。夏の暑い時期、クーラーもなく、汗をたらたら流しながら、僕ともう一人の入寮者と二人で始めました。3年を過ぎた頃、もう一カ所、警察学校の西あたりの川久保町に、また一軒家を借りました。去年5月には、西浦町の真ん中にある公園の南側に場所を借りて日中はそこに集まってミーティングをしたり、作業したり、日中支援や相談援助をするようになりました。
今ではスタッフが6名、今日の時点で利用者が12名、コンスタントに来るメンバーがそれくらいです。この5年間で卒業して地域で暮らしながら仕事をしている人がまた5名くらいいます。また、仕事をしながら、DARCに通うという通所の形での利用方法もあります。
京都DARCのプログラムをしながら途中で失敗し、刑務所に行ってしまった仲間もおります。彼らとも手紙のやりとりを続け、出所してきたとき、本人にやり直す気があれば受け入れます。こちらからは、つながりを切らないかかわりを続けています。
刑務所に薬物離脱指導の講義をしに行くことも、活動の大きな一つになってきました。近畿地区を中心に12か所の刑務所に行っております。20年度は150回程度出向き、受刑者の人たちを前に、実際、出所してから、薬物をどんなふうにやめていくか、どういうふうに使わずにすませるか、どんなところに手助けとなる人や場所があるかということを話します。もちろん、DARCの紹介もし、それを聞いた人が、実際、出所後、DARCに来るというケースもあります。

(2)薬物依存症からの回復
一番大事なのはミーティングです。多くの人が薬を使い、刑務所に入る。出てきても行き場所がなくてまた使う。病院でもそうです。病院に入って一時、薬がとまり、身体がちょっと健康になって元に戻ってくると、退院する。出てくると、またやってしまう。そして、また入院する。その繰り返し。そのうち、周りは「この人はもうだめや」と諦めてしまうわけです。僕も自分自身をそう思いました。
何度も薬で失敗するうち、「自分はだめな人間や」と思ってしまう。回復するという言葉さえ知りませんでしたし、このまま死ぬしかない、何もかもがうまくいかず、そんなことも考えていました。精神科病院でどうにもならなくなったときにDARCの人たちと出会い、もう一回、やめてみようかなと思ったのです。使いだした頃は「使いたい、楽しい」という気持ちだけ。精神科病院に入るようになってくると「やめないとあかんのかな。ヤバイな」。そういう気持ちですね。でもそこまでなのです。「やめなあかんな」と思いです。それは自分の心から出ていない。誰かがやめろというから、仕方なくやめなあかんという気持ち、監視されているから、やむを得ず、使わないというものでしかないわけです。
でも僕がDARCの人たちと出会ってからは「もしかしたら、やめられるのかな?」「あ、やめてみようかな、やめたいな」。そんな気持ちに変わってくる。彼らは、薬を使わなくても、いきいきと毎日を過ごし、愉しく、明るく、生きていたからです。薬を使わず、人生を楽しむ姿を見て、自分もそうなれるのかなという気持ちが出てきました。自分も、そんな風になってみたいなと。
実際、使わない日が出てくる。誰からの指示を受けたのでもなく、仲間にひきつけられて今日一日、今日一日と続くと、「もう使いたくないな」と思う自分に変わっていきました。昔の自分には、もどりたくはないと。たった一日、薬をやめることでも、周りから強制的に監視されて、しかたなくやめるのと、使える自由な環境の中で自らの決心でやめるのとでは、全く、意味が異なるわけです。
刑務所で3年間、受刑生活を送ったからもう薬を使わない人間になるわけではない。刑務所で良いほうにすっかり変わる人はそう多くはないです。刑務所生活を終え、出所しても、その心は、入る前と同程度です。3年間、監視されていたから、使えなかっただけ。出てきたらまた使いたいとなってします。実際、塀の中から出てきた人が、「出たら、即、一発、行こうと思っていた」と正直に話すのもよく聞いています。
でもDARCでプログラムをきちっと3年間やった人は使いたくなっても、使わないために新しいスキルや生き方を知っている。「もう薬は使いたくない、やめたい」と自分の心が確実に変化しているからです。そこが大きく違うわけです。
回復への道は、単純に断薬さえすればいい。薬をやめさえすればいいというわけではなく、「生き方を変えなければいけない」ということです。それは自分自身に正直になることであり、仲間の話に共感したり、感動したり、人との絆を取り戻していくことであり、それこそが、DARCのミーティングの中にあるのです。
病院で「あなたは薬物依存者です」と言われても「あんたに言われたくないわ、使ったこともない人に俺の気持ちの何がわかるんや」。そんな態度でした。
しかし、DARCのミーティングで同じような経験をした人たちがしゃべっているのを聞くと、かたくなに閉ざされた心がしだいに開いていくのを感じました。3年やめている人もいれば、1カ月やめている人もいる。失敗したという話をする人もいる。「今から、一発、やりにいく」という危険な人もいる。そんな話を聴きながら「ああいうことをしていたら、失敗するんやな。3年やめたらあんな楽しそうな感じになるんか」と思う。薬をやめていることは最初すごくしんどいことだったけれど、いろんなことに気づき、楽になっていきます。仲間との共感や気づき、希望。それが僕自身、薬をやめ続けていく一番の力になったわけです。
どんなに痛い目に会わされても薬は止まるものじゃない。たとえば親の葬式に泣きながら薬を使っているなんて、よくあることです。親が死んだときでさえ、子どもが生まれるというときでさえ薬を使っていた人は結構います。ですから、叩かれようが、縄でしばられようが、いくら強制されても、やめられるものではない。しかし、そこまで、やめられなかった人たちが、仲間とともに自らの決心で「やめたい」と希望を抱けるようになっていく。
実際に薬を止め続けて働くスタッフや仲間を見て、自分もまた、やめ続けていこうと思う気持ち、もう一度、人生をやり直せるのではないかという希望、薬をやめてあんなふうに働けるのではないかという思いを取り戻していく。薬をやめることは、我慢とか自分の意思の力だけでやめていこうと頑張ると、しんどいわけです、ものすごいエネルギーを使う、どうしても無理が来る。そうではなく、とりあえず、今日一日だけ、やめていこう。そう思うと、気楽な感じです。全然違う感じになる。そんなふうに「薬を使わない生き方」を教えてくれた場所でした。とても惹きつける魅力のある場所でした。

2. 薬物依存症の特性
【初期】
多くの人は「なんでこんな悪い覚醒剤なんて、違法な薬物を使うのか?」と不思議に思われるかもしれません。しかし、実際、薬物と出会う時、最初から薬物に関心があったり、好奇心を持ったりした上で薬物に近づいて使う人というのは意外に少ないのです。
僕の場合は、子どもの頃からヤンチャで喧嘩をしたり、街へ行ったら恐喝をしてお金を巻き上げたり、バイク盗んだりしていた。そして、就職。職場を何カ所か転々としましたけど、あるとき、仲良くなった同僚が「タケシ、お前、大麻吸ったことがあるのか?」と僕に聞いてきたのです。周りにシンナー吸っていた人もいたし、覚醒剤をやっていたおじさんたちも見てきた。でも、自分は使ったことはなかったのです。でもそのとき、「ちょっとくらいやったらやったことあるけど」とふっとウソをついたのです。つよがったのですね。「俺も大麻くらい知っているよ」という感じでええ格好をして答えてしまった。「ほな、今日、一緒に吸おうや」と誘われたのです。それ「ウソやねん」と言えずに、「やったことがある」というウソをつき通すために、彼の家に行って初めて大麻を吸うことになるわけです。
当時の僕は、タバコも吸い、酒も飲んでいましたけど、中学校でシンナーを吸いませんでしたし、ドラッグは使わない子だったのです。隣にシンナー吸っている友だちがいても、僕は吸わなかったのです。そういう自分が、そのときは大麻を吸ってしまうわけです。それは強がりの気持ち、もう一つは知らんということを言ったときに「不良やヤンチャやっている割には大麻もしらんのか」と、ばかにされるような感じがして、それが嫌で、誘われるまま、一緒に吸ってしまうわけです。たばこを吸っていたので吸うことに苦労はしませんでした。見よう、見まねで同じように吸いました。初めて吸っても、そんなに気持ちよくもなかったし、なんかおかしくなることもなかったので、「あ、こんなもんか」ということでその日は終わったのです。
数日して、また「今日も一緒にやらへんか」と誘われた。断る理由もなくて「違法やんか」と思うけど、僕は、酒も飲んで、タバコも吸っていた。十八歳の自分にとっては、これも違法です。大麻も違法ですけどたばこと同じような程度にしか見ていませんでした。そして、また大麻を吸う。今度は気持ちよかったのです。感覚が、なんか変わるのです。音がすごくきれいに聞こえてきたり、色がきれいに見えたり、とても刺激的な感じでした。
芸術関係の人や音楽関係の人がドラッグを使いたがるのはそんなところにあるのだと思うのですが、感覚が刺激的に変わるのです。映画を見ていてもすごい迫力になるわけです。小さいテレビで観ていても、身体がのけぞるほどインパクトがあるように感じる。実際、楽しいわけです。「これはいいな。お酒飲んでいるより絶対こっちの方がいいや」。さらに彼と大麻を使っていくようになるわけです。最初は彼が持っている大麻をタダでくれていましたし。いつも行くと僕の使う分を彼がくれる。また彼と一緒に薬物を使っている友だちとも出会うようになっていく。薬仲間みたいな人間関係ができていく。さらに楽しくなっていく。楽しいし、気持ちいいんです。しかしそれは幻想ですし、長続きはしませんでした。
薬物依存の恐ろしいところは、『よすぎる』というところなのです。『よすぎる』、気持ちよすぎる。ここが薬物の一番恐ろしいところだと僕は思っています。世間では、薬を使うと丸がかけへんようになるとか、脳に障害を起こすとか、包丁振り回すようになるとか、そういうことを怖いといいます。最終的はそんな状態になるでしょう。でも、そうなるとは思えないのです。『よすぎる』と、自分がもっている夢、希望、貯金とか友だち、家族、そんなものを手放してよい。すべて捨ててでも薬がやりたいと思うようになっていく。気持ちよすぎるから、薬が…。
最初は友だちとの約束を破るくらいです。「今日、遊びにいこう」「ちょっとしんどいからいいわ」。彼女とのデートも取りやめにして薬の友だちのところに遊びにいく。そんなことから始まるのですけど、その恐ろしさをわからず、逆に安心して使っていました。聞かされていたのは先ほどのような薬物というのはとんでもないことになるのだということ。でも実際に使っている薬物使用者、目の前にいる友だちはちゃんと仕事もしているし、収入を得て、その中で少し薬を買って楽しんでいる。全然恐ろしいものと違うやん、大丈夫なんや。薬物依存とかいう病気の人、もしくは刑務所に行ったりする人もいるけど、そういう人たちと僕たちは違う、別なんだ。僕たちは、薬の使い方も、量もちゃんとわきまえているし、間違ってない。四六時中使っているわけでもないのに…。「だめな人たちはDARCに行った方がいいし、刑務所に入れた方がいいやろ」と、間違っているのは彼らで、自分たちは全然、問題はない。そう思っていた。
一度使ったからといってすぐに連続使用が止まらずにどうにもならないことにはならないのです。夜一回使って翌朝普通に仕事にいって、仕事中は、薬を使いたいとも思わへんし、帰宅して、あれば使う、なかったら使わないという感じ、だからやめられるし、コントロールできていると思っているのですね。
薬を使い始めた初期の頃の多くの人はそんな感じで、友だちに誘われて周りが使っている場面に出くわして「お前もやれよ」と言われて「ちょっと、ヤバイんちゃうかな」と思いつつ、「一発だけなら」と自分に言い聞かせて、強がって、その雰囲気に飲まれて、手を出してしまう。
「なんやお前、やらへんのか」なんて言われて、仕方なく一回ぐらいやったらと思い、「今日やって、次から断ろう」と思って使う。その一回がまた次の一回を呼ぶ。一回使っても大丈夫やった。「あいつもやっているし、大丈夫や」。そして、また使う。最初の頃はそんな感じでもありますし、大きな問題もすぐに起こりません。
僕たちが使っていたのは、18歳の頃、今、43歳ですからずいぶん昔です。今の10代の人たちはちょっと使い方が違っていて、直接インターネットの情報にアクセスしてネット上にあるヤミ薬局の人たちから薬を買ったり、情報を手に入れたりして購入したりします。その薬物の種類もいろんなものがあります。僕たちでさえ見てもわかりません。これがドラッグなのかサプリメントなのか、フリスクのようなおやつなのか、医薬品なのか、そのような錠剤のものが一杯ありますから、混ぜておかれたらわかんないです。コーヒー豆のブルーマウンテンとキリマンジェロを混ぜて、それを分けろと言われるようなもので、もしくは、コシヒカリと普通のお米を混ぜて出されて、分けろといわれてもできない。そんなものなんです。多種多様で、よくわからない薬もあります。薬物との出会いやきっかけというのはさらに僕らの時代よりハードルが低く簡単になっているんじゃないかなと思います。僕たちは覚醒剤を注射器で静脈に打つ、それには注射器もいるし、静脈に打つ技術もいるわけです。そこそこ、ハードルが高いわけです。今は錠剤をポンと飲むだけで同じような効果が得られるわけです。フッとやってしまう可能性は、今の子どもたちはずいぶん高い。実際に今の薬物問題は、はばが広がっています。また、覚醒剤なんかは、エネルギッシュになり、眠気もとぶので仕事のために使いだした人たちもいます。

【維持期】
そんなふうに一回使いだすと効果や楽しさを知り、また使ってしまう。そして、少しずつ病んでいくわけです。彼女との関係も反故にする。仕事も最初は調理師になりたかった。飲食業で頑張ってやっていた。薬を使って遅刻をするようになる。気まずくなって辞めてしまう。でも薬代がいる。次の職場に行くときは、「もうちょっと金のいいところにしよう、薬代がほしいから」。また転職をする。また薬を使って遅刻したり、ずる休みしたり、めんどうくさくなってきて辞める。また違うところに行く。だんだん飲食業なんてどうでもよくなってくる。いくら貰えるか。給料のいいところを選んでいく。その頃はバブルの頃でもあったので仕事を変われば給料も上がるという感じもあったので、だんだん自分が料理人としての腕を磨くより、お金と薬物が主になってきて、仕事を移り変わっていく。そのうち仕事も、どうでもいいようになり、ギャンブルで稼ぐようになる。それでもあかんかったら、今度はひったくりをやるようになる。自分の使う分をつくるために他の人に売るようになる。とりあえず1万円ずつ5人から集めてきて5万円の薬を買ってくる。自分は2万円くらいの薬をとる。3万円の薬を5つに割って、その人たちに渡す。僕はタダで薬が使えるわけですね。お金がいるときはそのうちの一つをお金にすればいいという感じで、だんだん暮らし方がすさんで進行していく。薬を使っているので、その変化に自分も気がつかない。じわじわと退廃的な生活と変わっていく。最初は料理人になる夢とか、家庭環境が複雑なところで育っているので幸せな家庭を持ちたいな、早く奥さんをもらっていい家庭をつくりたいなと思っているけど、彼女もでき、子どももできて結婚もしたけど、薬で人生をだめにしてしまう。
考えることは、どこに行ったら薬物が安く手に入るか、安全に使えるか。誰か買う奴がおらへんかなということばかり考えるようになります。使ってないときでも「ああまた使いたいな、最後に使ったのはいつやったかな。今度いつ使えるかな」。考えるのは、薬にまつわることばかり。周りにもばれるようになってきて人間関係も変わっていくわけです。
叱られるのが嫌ですから、親の家には顔を出さないようになる。薬を使ってない友だち、幼なじみとかは避けて通る。誘われても断る。気がつけば、回りは、薬を使っている人間関係ばかりになっていく。さらに、ひどくなると、集団の中では使わなくなる。一緒に薬を使っている連中さえも、煩わしくなってくる。めんどうくさいのです。薬だけを一人で使っていたい。そうなると、ひきこもるような感じになってくる。ただ、ただ家で薬を使って、僕なんかは悪くなってきたときには一晩中、アダルトビデオを見ているだけ。覚醒剤の人は結構、セックスの問題が大きくなってくるのですね。性癖が歪んでくる。日中は家でひっそりしている。夜になると薬のためにまた動きだす。ひったくりに行って、そのお金で買いにいって薬を使って。誰か売る奴を見つけて。そんなことを延々と繰り返すわけです。

【直面期】
その頃の僕は、薬を売ったり、買ったりしながら、ちょっと金をつくって、ハワイにでも移住して大麻を吸いながら、のんびり暮らせたらいいわと、まだ、馬鹿な夢も持っていたのです。しかし、現実には精神科病院に入院しなければならないようになり、生活保護を受けざるを得なくなるようになり、精神障害者手帳を発給されて病院の関係者からは「一生、生活保護でもええやんか」と慰められているのか、励まされているのか、よくわからず、へこんでいる自分がいました。精神科病院に入って、さすがに自分でも「何とかせなあかんな」と思うのです。でも、また医師から出される薬を乱用するわけです。眠剤、寝かしつけるための薬をまた乱用する。朝起きてすぐに飲んだり、お酒と一緒に飲んだり。寝られるのに、医者に「寝られへん。薬出してくれ」といってその薬を出させて、それをまた、他の人に売ったり、覚醒剤に変えたりするのです。当時飲んでいた寝る前の薬ですが、1シート(10錠)5000円で売れた。1日2錠飲んでいましたから10日分で1パケ(0.3g程度)の覚醒剤と交換できるのです。病院に入っても、全然治療になってない。症状だけは言いました。「人の声が聞こえてくる」「追われているような気がする」「眠れない」。そういうことは話すけど、自分が薬を使っていたことは話さなかった。でもどこかで自分も、やめたいという気もあったのですね。薬を使っていることを病院で正直に言っても、警察に突き出されるか、あるいは、追い出されるはめになると思う。助けてもらえるとは思えない。力になってくれるとも思えませんでした。ですから言えない。精神科病院で入退院を3年間程度繰り返していました。3年たってやっと正直に薬物のことを言えました。それも僕から言ったのではなくてバレたからです。病院の詰め所から注射器は盗むし、他の患者の薬は盗む。むちゃくちゃなことをしているわけですからバレてしまって「あなた、薬やっているやろ」となって、しぶしぶ認めたような感じです。「それなら、この病院にはおいておけへん、マック(DARCのような場所)に行ってくれんと、診ることはできない。マックに行って薬をやめていくことに取り組むのであれば、関係は切らずにいるけれども」と言われてしぶしぶマックに行くことを受け入れて病院との関係を継続したのです。(当時は京都にはまだDARCがなく、マックしかありませんでした。その後、大阪にDARCが出来て、利用するようになっていきました。)
僕はマックやDARCなんて行っても、薬なんかやめられないと思っていました。自分でやめようとして、それでもやめられないのに、そんな施設にいってやめろと言われて、なにかやらされて、やめられるものではないと。全く、期待をしていませんでした。
しかし実際行ってみると、そんな感じではなかった。「あ、よく来ましたね」と笑顔で言われるわけです。今までどこにいっても嫌な顔をされて「またあいつ来よった」といわれていた自分が、「よく来ましたね、最後、薬使ったん、いつ?」と歓迎された。「2週間前なのですけど」と正直に答えると、「ああそうか、まだしんどいやろな。大丈夫か?」とか僕が薬を使ったことを全然、否定しないわけです。「大分、頭の中が忙しいやろ?」といって笑う。その通りなのです。回りに嘘ばかりついていますから、嘘をごまかすために、また嘘をつく。そして、その嘘を覚えておかなくてはいけないので、頭の中は、いつもせわしく忙しい。そういうスタッフや仲間の対応が、なんかとても心地よかった。とてもすんなりと、その場で入っていけて、全然、苦しくはなかったのです。
ミーティングの輪に入るようになっても、最初は、他の人たちの話を聴くのが精一杯。自分のことなんて一つも話せませんでした。でも他の人たちが今、僕が話していたような体験を正直に話しているのを聞いて、「なんか、この人、僕と同じような経験しているんやな」と共感とともに気が楽になっていきました。全然違った体験もありましたし、気づきもあった。
僕はどちらかというと、お金のない貧困層で富裕層ではなかった。でもDARCには金持ちの仲間もいるわけです。しかし、その彼も、ミーティングでは、孤独だ、寂しいと話している。親は社長でほとんど家にいない。出張ばかり。母親もまた、地域の役割などで忙しく、母親の手料理をあまり食べたことがない。家政婦さんが作る料理をいつも食べていた。父親とキャッチボールをしたこともない。家族団欒もあまりなかった。家政婦に育てられるような感じだった。そんな寂しさから薬を使いだして、やめられなくなってDARCに来た。そんな話を聞く。僕は心のどこかで、「金さえあれば僕の人生はもっとよくなっていたんと、ちゃうか」と考えていた。「金さえあれば幸せが手に入るし、楽しいに違いない。しかし自分は貧乏やから、こんなふうになっているんや」と卑屈な思いを抱いてきた。自分の問題を貧困にすり替えていたわけです。けれど、そういう仲間の話を聴いて、ちょっと驚くわけです。へえ、そうなんや。
僕は父親を知りませんでしたから、父親のいる人をうらやましいという気持ちもあったけれども、「父親がいても、僕と同じように寂しい気持ちがこの人もあったんや。同じように薬を使って、結局は彼もここにいるのか」と、価値観が大きく変わったりしていくわけです。

【崩壊期】
でもDARCにつながったからといって、皆が皆、そんなふうに回復していけるわけではないのです。また失敗して刑務所に行く人もいて、捕まって何とか命がつながったなという人もいる。僕も幻聴が聞こえたり、幻視が見えたりしました。錯視というのか。窓の隙間から光が差し込みます。覚醒剤を使っていると、ふと影が揺らいだり、風が揺れたりして「うん?」と思って「誰かあそこから見ているのと違うか。俺のこと監視されているのと違うか?」と疑いだす。一旦、疑い出すと、それからもう何時間もそこばかり見ていることなんてよくあることです。1日中、覗かれているのではないかと思いつめる。町を歩けば誰かが「あの人、覚醒剤使っている、恐ろしいわね」といっているように聞こえる。全然、知らない人ですよ。それなのに、そんなふうにしゃべっているのが本当に聞こえてくるんです。時には「お前みたいな奴は死んだほうがいい。死ね」とかいう言葉まで聞こえてくる。「ビルから飛び下りろ」とか、そんな声まで、それをサラッと聞き流せない。その言葉に強迫的に突き動かされる。自分は死にたくなくても、その言葉に突き動かされて、実際にビルの上まで登っていき、屋上の壁の縁まできて、遠くマンションの点滅する灯が見え、「あれが3回、点滅したあとに飛び下りろ」と、そういう指示が聞こえてくるわけです。とても怖い。恐怖で身体が震えます。しかし、僕はそこで飛び下りず、また降りて戻ってこられましたが、実際、飛び下りてしまった仲間を何人も見ています。今となっては、それが事故なのか自殺なのか、わかりませんが。
ある人は奥さんから「また薬使って帰ってきた」と言われて、鍵を閉められる。奥さんが家に入れてくれない。その人は樋を登りだしたのです。マンションですよ。結構高い。何度か成功してベランタから家に入っていた。しかし、ある日失敗したのです。樋から手が離れて落っこちて亡くなってしまった。薬をやめようとしていながら、再使用をしてしまい不幸にして、そんな亡くなり方をした人もいます。
薬物依存の人は事故とか、自殺とかで、結構亡くなっているのですが、あまり、世間では知られていない。それは多くの薬物依存者が、薬を使い続けるうちに、回りの人間関係がどんどん切れていって、最後には、孤独の中で死んでいくからです。だから、その依存者が死んだことをかつての友人たちは、誰も知らない。何年もたってから「あの人、どないしてるの?」と誰かに聞いても「さあ」という返事。別の人に聞くと「あいつは、もう、3年ほど前に死んだで」と聞かされて、始めて知る。そんな亡くなり方です。家族は薬物を使い続けて亡くなった依存者本人のことを世間に知られたくない。だから、葬式もあげへんとか、葬式をしたとしても身内だけで誰にも言わず、ひっそりと終えてしまう。そんなケースも多いわけです。
生活保護受給者の依存者が亡くなった時、福祉事務所の職員が部屋を片づけしまえば、遺骨や遺品はいったいどうなるのか。親が遺骨の引き取りを拒否してしまう。そういう仲間が一人いたので、DARCで、お骨を引き取って、大阪の一心寺に預けて供養してもらいました。
薬物依存者は、たいていの場合、ひっそりと死に、周りの者は、ごみを片づけるような形で後始末をする。たとえ、違法ドラックに手を染めたとはいっても、その末路は、あまりに哀しく、孤独で、葬式の度、胸がつまります。家族がいるのに、家族が一人も参列しない葬式は切ないものです。しかし、その家族を冷たく薄情だといってしまうのは、また語弊があります。家族は、金銭や暴力の問題を始めとして、依存者本人から地獄の思いをさせられたケースも多いからです。家族の参列しない葬式に、メンバーたちだけで、花を飾って、故人を送り出す。それは、それで、心のこもった葬式でもあるのですが…。
もしここにおられる方々が、今日にでも亡くなられたら大騒ぎになると思うのです。知り合いも多いし、友だちも、職場の人間関係も多いでしょう。大勢の人に、亡くなったことが知られて、見送られていく。しかし、世間で疎外され、家族、友人関係のほとんどを断ち切られた薬物依存者は本当に見えない中でひっそりと、孤独のうちに、死んでいく。

【回復期】
僕は今日までなんとか回復してきたのですが、当時、僕をみていた主治医にいわせると奇跡だと言います。僕が回復するなど、当時、誰も信じてなかったですね。当の本人でさえ自分が回復するとか、今、こういった生活をするなどと想像もつかなかった。また、こんなふうになろうとも思っていませんでしたし、いろんな意味で本当に奇跡的なことだと思っています。
DARCでは時々、そんな奇跡が起きる。今、6人のスタッフでやっていますけど、皆が皆、DARCのプログラムを受けて、やめ続けているスタッフです。一時はアルバイトをしながら生活を続けていたけれど、自分もDARCでスタッフをやりたいといい出し、そして、実際、スタッフの道を選ぶ人がいます。それはなぜか。
僕自身、薬をやめてDARCを卒業して一時、働いていました。2000年、九州でバスジャックがあって高速道路をバスが走るという事件が起きましたね。あの事件はテレビで生中継されて、カーテンか閉められたバスが走っていくのが映し出されていました。あのとき、僕は職場の事務所で働いていて、夜遅くでしたけど、職場のおばさん達が「わあ、怖いな、こんなことするの、覚醒剤とか薬やっている人、ちゃうの」という話になって盛り上がるわけです。「そうや、そやなかったら、こんなん、できへんで」と…。僕は実際、覚醒剤を使った経験があり、今、やめ続けて、そのことを隠して職場で働いているわけです。その話に乗って騒ぐこともできませんでしたし、かといって「覚醒剤使うと包丁振り回すと言うけど、そんな人間ばかりと違いますよ。僕は使っていましたけど今は、ちゃんとやめています」、そういうことも言えずに目の前の仕事を黙々とすることしかできなくて…。そのときから、なんか一体、自分の回復というのは、何やろな。自分自身がやめ続けてこうやって暮らしていても、世の中の人たちは薬物依存者が回復することも知らないままやんか。これだと、死んでいくのも知らへんままやし、回復した人も知らないままや。目の前で僕が正直になれない故なのですけど、正直になれば雇用されることはなかったと思います。そのことを伏せているから雇ってもらえたし、仕事があったわけですね。それって、すごく寂しい感じがして、これじゃ、いつまでたっても自分たちの安心できる場所は一つも増えていけへん。回復をもっと知ってもらいたい、そんな思いが出てきて、DARCのスタッフになろうと思ったのですね。その仕事を辞めてもう一回DARCに戻って薬物依存者が回復するというメッセージを伝えて、そういう場所をつくっていくことをやろうと決心したのですね。
ちょうどそのころ、大阪DARCが移転するにあたって、そこでスタッフをするようになりました。スタッフになってから、あらたな気づきもあったし、考えさせられることもありました。それまではただ自分の回復、自分がやめ続けていくことだけを考えていたけど、次々とやってくるメンバーのことを考えなければならないようになってきた。
自分が安心できるまち、暮らしとは、今、自分には11歳の男の子どもがいます。小学校に通っています。僕自身が父親としてどんなふうに地域の中でやっていくのか、自分の子どもに自分のことをどんなふうに話していくのか、そんなことも考えます。学校で、薬物乱用ダメダメダメと言われると、その家の子どもは、あまりにも辛いことじゃないかなと。そんな子どももすくなからずいるわけです。覚醒剤だけに限らず、アルコール依存症、ギャンブル依存症、虐待、家族間暴力の問題、そういう環境の中で過ごしていく子どもたちに、簡単にダメな人間、覚醒剤を使った悪者にしていいのかという疑問もわいてきました。
中学校や高等学校で話をするときは単純に薬物の恐ろしさだけではなく、回復の話とか、僕自身が子どもの頃に思っていたことなども話します。それはDARCの中のミーティングで、薬をしたとか、しないとかの話だけではなく、どんなことが自分にとって寂しかったのか、どんなことが子どもの頃の夢だったのか、やりたかったことだったのか、もしくはこんなことがあって悔しかったとか、怒ったとか、そんな自分の内部のことを正直に話し、また仲間の話を聴く中で、僕自身も変わっていったからです。自分のことをわかってくれる大人もいる。苦しい時やつらい時、助けを求めてもいいということも伝えられればと思っています。
ここまでが、僕のDARCにつながるまでの話です。後半は、家族のために地域のために、資料の中から抜粋した話をしていきます。

3. 家族のために
 (1)DARCのかかわりの中で
薬物依存の特性ということで、使いだしてからDARCにつながるまでをお話させてもらったのですが、回復していくと、DARCでどんなふうに変わっていくのか。DARCでよく使うスローガンがあります。「今日だけ」「気楽にやろう」「私にはできないが、私たちならできる」「一人ではできないけど皆とならできる」また、「第一のことは第一にしましょう」などがあります。
僕自身が自分だけで、やめようとしていたときは我慢の連続でした。「使ったからあかん、やったらあかん」。ものすごいエネルギーを使うし、しんどいことです。我慢も必要ですが、我慢は時々、使うものなのです。四六時中、我慢をしていると破綻してしまいます。
DARCは「今日だけやめておこう」をスローガンとしています。「これを最後にしてやめよう。この一服を吸って明日からやめよう」「月曜日からやめよう」ではなく、「今日一日だけやめていこう」です。皆さんもダイエットとか甘いものを控えようと思いたった時、「明日からやってみよう」と決意したことがあるでしょう。薬物依存者も一緒なのです。「明日から、次から、これを最後にして…」今だけ使う。だから、いつまでたってもやめられない。それを、「今日だけやめておこう。最初の1回を使わないことに集中しよう」、こういうやめ方にしたのです。この先一生、やめられるかどうかなんて、わからないけど、今日だけは薬を使わずに精一杯やってみよう。今日、自分にできることをやってみよう。本当に正しい、模範的な生き方、暮らし方にはすぐにはならへんけど、とりあえず、今日だけは薬を使わない生き方。
まだ精神科病院を出てきたばかりの僕は、DARCにいてもゴロゴロ寝ているばかりだった。
今日も、僕を    さんが、DARCに迎えに来てくださったのですが、その時、ソファに寝ころがっていたメンバーが二人いました。    さんは、そのメンバーたちを見て、どう感じられたかはわかりませんが、僕の昔の姿です。最初はそれでもいいのです。ごろごろしていていい。いつまでも寝ている人はいません。そのうち何かをやりだすのです。ごろごろしながら、「ちょっと俺、今日、使わないで済んだ。昨日より使いたい気持ち、ないな。じゃ、もう1日、今日だけやってみよう」。そんな感じてです。これが「二度と使ったらあかん、一生使うな」「あれをしろ、これをしろ」となると「それなら、最後に一発だけやって」となるわけです。だから、「今日だけはやめましょう」。それと、ベストを尽くす。
そして、「あれ、やったらあかん、こうしたらあかん」ではなく、「できることをやってみようよ」。
まず薬物を使っていた人たちに大事なことは「薬物を使わない時間を楽しむこと」。心地よい時間をもち、楽しめるようになること。プログラムの最初の頃は薬ぬきでは、何をやっても面白くないのです。カラオケに行っても「酒も飲まんと、カラオケしても、おもんない」。プールに行こうと誘っても、「暑いし、しんどいですわ」。何かをやろうと言われても皆、億劫がって、嫌がるのです。実際、重い腰をあげて、プールに行くと、そういう人たちが一番はしゃいで、遊んでいたりするのですが…。でも、最初は気がすすまない、気が乗らない。しかし、億劫がらずに、とりあえず素面でやってみる。
DARCの仲間と昼間にお酒も飲まんとカラオケに行きます。「夜、お酒も飲みながらカラオケに行くのと違うのか。焼き肉食べるのもビールがあるのが焼き肉違うの?」とおかしく思われるかもしれませんが、行ってみるとそこそこ楽しめる。僕は音痴なのです。下手なのです。今まではカケオケに行くと飲むわけです。恥ずかしいのがちょっと飛ぶくらいまで飲んで歌う。酔っているから、余計、歌が下手になるわけでね。飲まずに歌うと上手くもないし気恥ずかしいけど、少しずつ大きな声を出し、歌を歌うことが楽しめるようになっていくのです。不思議なものです。カッコ悪いとか上手にやろうとか、演じたり、とりつくろったりしていた自分が、ありのままに「ちょっと歌下手やけど、かまへんかな」と思いながら歌う。「この歌難しいし、やめといた方がいのじゃない?これにすれば」とか歌のうまい人に教えてもらいながら、そういう素面の時間を楽しめるようになっていく。そうして次第に、薬を使って楽しんだり、気分を変えたりすることが必要ではなくなってくる。たまに、薬を「使いたい」という気持ちにはなるのですが、実際には使わないで済むようになる。
薬物依存症の病気というのは「やめたい」と思いながらも使い続ける。進行していく病気で、どんどん状況が悪くなる。症状としては脳が変化していくのですね。僕にとっては、こういうペットボドルの水は結構大変なものだった。なぜだかわかりますか?これは僕が覚醒剤を使うときの道具の一つなのです。覚醒剤を水に溶かすときは、ほんとは薬局で売られている精製水がいいのですが、夜中に手に入りませんから気軽にペットボトルの水をどこでも持ち歩けます。持っていても怪しくない。車に薬局で売られている精製水を持っていたりしたら、怪しいでしょ。だから、ペットボトルの水で溶かし、注射器で打つ。やめ始めた僕にとっては、ペットボトルを見ると使いたい気持ちがファッと出てくる。また、覚醒剤の結晶はちょっと半透明の白い結晶。喫茶店でコーヒーを飲む時の砂糖をはじめ、角砂糖、岩塩、氷砂糖を見ると覚醒剤を想起する。「覚醒剤と一緒や」「これだけあったらナンボや」「こんなにやったら死んでしまうん違うか」。白いものを見ると覚醒剤と結び付けて僕の頭は考えだす。コーヒー飲むときの甘味の成分であると思えへんわけです。脳がそうなっているわけです。覚醒剤を使った人はそんなふうになる。ごくあたりまえの反応なのです。皆さんにも同じような反応は起きるのです。
ここにレモンが一個ある。レモンを手の上に乗せて、ギュッと揉む。中でレモンの果汁が出てきます。ナイフで切ると切るうちからレモン汁が手に滴り落ちてくる。その半分を手に取り口の中にレモン果汁ギューッ と絞り込む。口の中に唾がピュッと出てきた人がいたら手を上げてください。刑務所でこの話をしてもなかなか手が上がりません。皆、聴いてないですから。皆さんは、いま、レモン食べたいな、酸っぱいものほしいなと思ってない。嫌いな人がいるかもしれない。でも僕がレモンの話をしただけで口から唾がビュッと出てくる。覚醒剤を使ってきた人で、こういうペットボトルの水を使っていた人なら、これを見ると心臓の鼓動が速くなったり、喉が乾いてきたり、手に汗が出たり、「もうすぐ覚醒剤が身体に入るかもしれないぞ」という信号が脳で発信されるのです。その準備をしだす。レモンの話をして唾が出てくるような。ごくあたりまえの反応として。
薬物をやめようとしている人たちが、いろんな場面で使いたくなる。風邪を引いて医者に行ったとき、後ろの棚に注射器が一杯あったりすると、それだけで僕たちの身体は反応する。時には歯医者に行って麻酔を打ったりする。麻酔を打つことで僕たちの身体は反応する。
テレビニュースで「覚醒剤を空港で押収しました」アナウンサーがいっている。その映像が出る。それを見て「悪いやつおるな」とは思わない。「わあ、すごい量やな。ナンボになるんやろ」。時に、電卓で計算してみたり、そんなことをしだす。普通の人とは発想が違う。それがやめ続けていく上でのストレスなのです。こういう、尋常では考えられないようなストレスが起きることをと理解していないと、また、依存者本人が、「使いたい」と正直にいった時、「何をバカなことを言うのや。刑務所にまで行って、まだそんなこと、言うてるのか」という反応になるわけです。
「また使いたくなってきた。今日、いつも通っている通り道が、マンションを建てだしてペンキの臭いがして使いたくなってしまった」、こういうことが、素直に話せる場所や人が必要です。安全に自分は歩いているつもりでも突然、そんな工事現場と出くわしたりすることがある。咳どめ薬を乱用してきた、依存してきた人は薬局に近寄れないし、入れない。薬局に入ると、咳止め薬や風邪薬の棚に足が行ってしまいそうだから薬局は避けるようにする。必要なものがあれば誰かに買いにいってもらう。そういう暮らしの工夫が必要になってくる。
DARCのスタッフや仲間たちは、そういう依存者たちの気持ちを理解しているので、いろんな工夫をして、それぞれが手助けしあいながらやっていくわけです。薬を使わない暮らしを一緒に支えていく。「だめや、やったらあかん」という根性論ではなく、ありのままのその人を理解して、それを支えていくような形。また、僕たちには、まとまったお金を手にする給料日も危険です。薬を使っていたときによくある環境も危険です。家では使えないから車で出掛けてドライブしながら使っていた人は、車に乗るだけで渇望が沸き起こってきたりもします。僕も薬を買いにいくのは大阪なんかに行くわけで、高速道路を飛ばしていきました。やめだした頃は、夜の高速道路を走るだけで、ちょっと心がさわぐ、落ち着きがなくなる。
今ではずいぶんとやめている期間が長くなり、ペットボトルを見ても、心はさわぎません。使わない日が積み重なっていく中で、ペットボトルの水は覚醒剤を使うときの水ではなく、ごくシンプルに喉を潤すものへと変わっていきましたが、それには時間と体験が必要になってくる。カラオケもそうですし、スポーツをした楽しみも最初はしんどいけど、やっているうちに楽しめるようになっていく。メンバーたちが、そういう健全な回復をしていくことをスタッフたちが支えています。
薬物依存者にとってDARCは安心できる場所、安全な場所です。自分のことを理解してくれるし、それを支えてくれる場所です。一日三回のミーティングをしながら。
ミーティングというのは参加者が京都DARCだと10人くらいが車座になり、皆の顔が見えるような形で座り、その日のテーマを司会者が一つ選び、あてられた人が、テーマに添って話をします。「今日は薬を使って一番ひどいことをしてしまったなと思うことがあればその話をしてください」「今日は謙虚について自分の経験や体験を話してみてください」など、テーマは多様です。
「謙虚なんて何のことか、意味わかりません」と言う人もいる。でも何度かミーティングを重ね、経験を重ねていくうちに、そのわからなかった人も、「謙虚についての体験」を話すわけです。
「今まで俺のことなど、誰にもわからへんし、わかってくれへんと思いながらやってきた。でも正直に話をしてみたら、時に力になってくれるメンバーもいた。その時、素直にその人の『一緒にやってみよう』という言葉が力になった。『やっていこうかな』という気にもなった。『余計なことをいいやがって』といつも思っていたけど、ちょっと気持ちが変わった」と。初めてDARCに来て自分が謙虚になれた体験を話す。その話を聴いて、「謙虚って、そんなことなんか」と、今まで謙虚について、全くわからなかった人が気付き、また、次のメンバーに自身の体験として伝えていく。ここに「謙虚」と書いて辞書のような知識として教えていくわけではなく、体験や経験を通してその意味を知っていく。また自分の過去をその「謙虚」という思いを持って振り返る。「俺もそうやったな。あのとき、ひどいことをしていた。謙虚なんて思いは一つもなかったな」と意識しながら1日が過ぎていく。少しずつ成長していくわけです。
基本的にはミーティングというのはディスカッションしません。「その君の考え方は間違っているぞ」そういうことは一切、言わない。たとえ、メンバーのひとりが、「今から大麻を買いにいく」といっても、「やめとけ」とはいわない。アドバイスはしない。その人が話したい話を話せるだけ話す。他の人たちはただ黙って、それを聴くだけ。話したくない人はパスしても構わない。時間の配分は、それぞれが配慮しながら話す。
もう一つ仲間とのかかわりの中で大事にしているのはスポンサーシップ。それは特定の相談相手を持つことです。長いこと薬をやめている人が「私があなたの相談の担当になります」というのではない。逆なのです。薬を必死にやめようとしている人が「この人になら正直に話してもいいな、相談相手になって欲しいな」と思って選ぶわけです。そして、薬をやめようとする人が「この人を僕のスポンサーにする」といって決める。お金のスポンサーではなく、心の支え、暮らしを支えていくためのスポンサーです。選ばれたスポンサーは、相談者から相談を受け、「こんなふうにした方がいいんじゃないかな。自分もこういうふうにしてきた。よければミーティングに行きませんか。仕事はまだやめた方がいいんじゃない?」などと提案をする。カウンセリングのようなやりとりもときにはあります。叱るなんてことも時にはあります。
そんなやり取りをしながら薬を使わない日を延ばしていく。時には病気が重くなって精神疾患を患っている人で統合失調症のような症状が固定されて精神科の通院を欠かせない人もいます。よくなっていく人もいますが、なかなか治らない人もいます。そういう人は京都DARCを利用しながら精神科にも通ってもらいます。あまり危険ではない薬を使うようにしていただき、睡眠とか気分に強く作用する薬は極力使わないように医師にお願いしています。また、そこで相談室のソーシャルワーカーとDARCの愚痴や日常の、ダルクでは話せないことを話してもらっています。
それからスピリチュアルの部分、精神とはちょっと違う、(よくテレビでスピリチュアルカウンセラーと言われているようなものと全く違います)、僕たちがスピリチュアルや霊的と言うのは、自分一人で生きているのではない、いろんな人たちの中で自分がいるということに感謝する気持ち、相手のことを思いやる気持ちのことです。
ほとんどの薬物依存症者は、自己中心的な生き方をし、周りにもさんざん迷惑をかけてきました。そういう自分がDARCの人たちに出会う中で、スピリチュアルな部分が変わっていく。姿勢や態度ということもいえるでしょう。小鳥のさえずりが心地よいなと聴こえたり、夕焼けを美しいと感じたり、人の優しさ、親切に触れて、ありがたいなと感謝したり。信じる気持ち。そういう、失われていた心です。
精神科に通って薬を飲んでも感謝できるようになるこころの回復はありません。幻聴が聞こえなくなったというのはありますけど。感謝という思いは、人間関係の中でこそ、その人が持ちえるものであるし、感じるものであると思うのです。薬を使っていた人たちは、大抵、家庭環境が複雑で、不幸な生い立ち、辛い環境の中で、心が壊れ、歪んでしまっている。その心をDARCの場で癒し、回復させていかなければならない、そう感じているわけです。

(2)家族とのかかわり
一番初めに身体がよくなります。僕は初めて入院したとき、栄養失調になっていました。平成の時代に栄養失調です。薬を使い続けることでろくに食べなかったのが、肉体的に健康になってくる。違法な薬物を使わない期間が延びてきて、精神的な部分も回復してくる。今度は今まで、人間関係をズタズタに壊してきたので、また改めて、それをつくりあげていかないといけない。DARCにつながった頃、親は敷居を跨ぐなといっていました。親でもない、子でもないという関係でした。当時つきあっていた友だちたちも、僕が施設に行くような頃には、行方不明になったとか、死んだんじゃないかとうわさされていました。ういう人間関係を、また取り戻していかないといけない。それはすごく大変なことです。なかなか変わりませんでした。
DARCに入って3年ほどして親のところに顔を出しました。そのときは玄関を開けてもらえませんでした。締めたままた「何しに来たんや。帰ってくれ」と追い返されました。帰り道、腹が立ちましてね、自分もいろいろとやってきたけど、「何や、俺をずいぶんと傷つけたこともあるやないか」と腹が立ってきて、謝りにいったはずなのに帰りは腹立って帰ってくるわけです。「もう行けへん」と思って。こんどはやめ続けている中で女性と出会って結婚することになって、子どもができたときに、再び、行ったのですね。そのときは開けてはくれましたが、チェーンがかかったままでした。
「何しに来た。親でもないし、子でもない」と言われて。ちょっとそこでは会話をしました。
「いろいろと悪かった。今は薬を使わずに再婚した」
「あ、そうか、でも、私には関係ないけど」と閉められたのです。
帰り道、腹は立ちませんでした。自分が親のところに顔を出すと「自分のしてきたことで、また母親が傷ついたり、思い出したことで考え苦しむのかな」。「行かへん方がいいのかな」と思うようになっていました。また、ミーティングでもそんな話をしました。それ以来、母から遠ざかっていたのですが、今日のような話をする機会とか、家族の相談とか、いろいろやっていく中で、自分の経験を話して「僕は母親がいるけど、全然会ってないのです」と自分のことを話す。すると、家族の方から「タケシさん、そんなことないと思うよ。もう一度行ってみはったら」と声をかけてくれる人が何人かいましてね。
プログラムをやりだして、やめ続けて10年目くらいですか。また行ったんですね。そのときは開けてくれました。部屋にも上げてくれました。当時、自分が親の家に盗みに入って、ものをとっては質屋に持っていって金に変えていた。その当時の部屋の置物などが同じようにあったりして、懐かしくも思ったし、バッと涙が出てきまして、自分の親不幸を謝ったんです。そこには母親の新しいつれあいもいました。それもあったんかなと思いましたね。僕が上げてもらえたというのは、単純に僕が変わっただけではなく、母親自身の暮らしぶりも変わった。新しい男性と暮らす中で僕を上げてくれた。それからは時々会いに行って、連絡をとりあうようにもなりました。でもよくいわれる一緒に食事にいって家族が団欒をするというような関係ではないのですが、それぞれがそれぞれの暮らしをしている。必要なときはいつでも言ってきてくれたらいいし、僕も時々は顔を出す程度の関係にはなってきました。
利用者のひとりは、家族がいながら、DARCに入寮することを選んだ。子どもも育てないといけないし、大変なので、最初の二ヶ月はずっとDARCにいたのですが、その後「週末は帰るようにしましょう。家族との時間をちゃんととってください。毎日いると喧嘩になるが、週末くらいなら家族サービスもできるでしょう」というところからやり直しました。人それぞれ、家族との関係で、今まで壊し、失ったものを回復したり、また新しくつくりあげていったりすることを少しずつしながら回復していく。
かつては「薬を使ってどうしようもない、行き場所もないし、生きていても役に立たない、人に迷惑をかけるような存在だ」と、思っていた自分が、少しは誰かの役に立てたり、実際、相談を受けたり、「ありがとう」なんて言われると素直にうれしくなる。薬を使っていた時には、人には言えへんようなひどい生き方をしてきたけど、やめ続ける中で「そんな自分でもできることがあるし、役に立つこともある。そういう場所なんやな」と思える。それは僕がまた今日1日やめ続けていくことで生きる力になっている。
依存者の中には、「どうせ自分なんて薬やめても社会の端っこにおれといわれて、俯いて申し訳なく生きていく。それなら死んだほうがましだ。それなら薬使ってしまった方がましだ」と思ってしまう人がいます。刑務所にいる人たちにも多いです。
刑務所の薬物離脱指導に行って、僕が受刑者たちの前で、DARCの話をすると、「俺たちが出て、加藤さん、養ってくれるのですか? 面倒みてくれるんか?」と真剣な顔で聞かれることもあります。
「全部面倒みてくれと言われたら、どこまでできるかわからへんけど、とりあえず、来てくれたら誠実な対応はしますよ」と僕は答えます。そして、本当に、満期出所して、着の身着のまま紙袋一個だけ持って、来る人もいます。「賞与金どうしたん?」と聞くと「髭そりを買うて2000円しかない」という返事。刑務所に入るときは真夏で、サンダル履きで入ったけど、出るときは冬やった。ジャンバーもいるし、ズボンもいる。買ってきたら、もうお金も残ってわけです。そんな人でも、DARCでやり直すことを始める。そこで受け入れなかったらこの人、どこに行きますか。住む場所もなければ、もう一回、悪い事をするしかない。
悪い世界の人たちというのは結構、親切なのです。それは利用できるからです。訪ねてきたら飯も食わせる。しかし、役に立たなくなると、その人を鉄砲弾とか替え玉に使われたりするわけです。ややこしいときに使われる。それまでは結構、親切にしてくれます。時には「覚醒剤、あげるよ、貸しで、ええわ」と悪の誘いをする。させるだけさせておいて、支払いの時になったらどうするか。「銀行口座をつくれ」。振り込め詐欺とかに使う口座をつくらせるのです。「銀行を全部回ってつくってこい。一個つくってきたら1万円で買うてやる。借金20万やから20軒回って口座つくってこい」。ある銀行、ほとんど行って口座をつくってくる。
また、携帯電話の契約をさせてくるわけです。それを全部とられるわけです。そういった口座や携帯電話が振り込め詐欺に使われたりする。そして、その人はまた警察に捕まる。役に立たんようになったら捕まる。そのように繰り返していく。ひどい人は、他人(同じように借金をしている人)と養子縁組までする。養子縁組をすると名前が変わりますから、また借金をできるようになる。サラ金からお金を借りられるようになる。ブラックリストに載り借りられないようになると、また、他人と養子縁組をする。同じように困った人と養子縁組をやらせる。何回やっても構わない。ひどくなると、そんなふうになっていくわけです。

(3)地域とのかかわり
どこかでそれをくい止めなければならない。誰かが手を差し伸べて、ある程度安全に、安心して暮らせる場所を用意して、少しずつ社会に馴染ませてやり直すことの手助けをしていく。まずは人生を楽しむという感覚をもう一度取り戻すことができれば、また、仕事にも取り組めるようになるわけです。楽しめない人が仕事だけやるのは苦痛です。大変なことです。休日があって、今度休みやから、誰かとどっか行こうとか、そういう楽しみがあるからこそ、大変な仕事もやりこなせる。ただただ、薬をやめるのではなく、生きる希望、喜び、楽しみが必要なのです。
DARCが山梨にできました。できたときに山梨県警のソフトボール部がDARCにやってきて「ソフトボールしないか?」と誘いに来ました。親善試合をすることになったのです。DARCの人たちですよ、薬物を使っていた人たちが、いつもは取り締まっている県警とソフトボールをやる。県警はユニフォームもあるし、帽子もある。DARCは何もないわけですよ。グローブもあちこちから寄せ集めてきて。県警の人たちがお金を出し合ったのか帽子をプレゼントしてくれました。そして山梨県警と試合をしたのです。14対1で負けました。また今年も山梨県警とソフトボールをやると言っていました。県警本部長までやってきたようです。そのことは僕たちにとって非常に勇気づけられる。
以は、自分たちが恐れて逃げまわっていた人たちから、ニコニコ顔でやってきて一緒にソフトボールやろうと。そんなふうにちょっと自分たちのところまで降りてきてくれた。もしくは自分たちを引き上げてくれる。決められたルールでやるだけ。尿検査はない。そういうことは僕たちにとっては、すごい力になっている。今日、この場で話をする機会を与えられていることも、そうです。同じようなことだと思います。
ここは伏見区ですけど伏見工業のラグビー部、スクールウォーズの舞台にもなりましたけど、当時の山口先生のいる伏工に、あの当時、僕も行きたかったのです。京田辺に住みながら奈良の学校に行かなくてはならず、伏工を選べなかったのです。違う学校に行くことになって、そこはラグビー部がなくてサッカー部しかなくて、先生からは柔道をやれと言われて嫌でね。山口先生は子どもたちを教えるときに「愛情とか、感動、そういうものを伝えられたら、きっと変わる。どんなに大変な人でも、そこに下りていって、はいつくばってでも一緒にやることがあれば変わる」とテレビ番組の中で話していました。それは、人というものは、いろんな体験をして、人と一緒に共感したり、感動したりすることで、人は変われるという意味あいでしょう。
もう一人、偉大な人ですけど、マザー・テレサは「愛の正反対は憎しみではない。それは無関心である」と。そういうことをおっしゃっていますね。愛はかかわることです。僕はDARCで、そういうものを教えてもらいました。中学のときによくしてもらった先生に「お前は愛を知らん」と言われたことがあります。とてもさみしくも心に残った一言です。いつか、会うことがあれば、その先生ともう一度、愛ということについて、話してみたい気もします。今の自分は、愛を少しは理解できたのではないかと思っています。
世間で、ポン中、シャブ中、犯罪者と言われた人たちがDARCで皆と一緒にやっていく中で、愛や、感謝、優しさというものを感じ取ります。その愛を与えられて、また次の人に与えていくということをやり続けています。そういう人たちや場所が増えれば、薬物依存でトラブルを起こす人はもっと減るに違いないと考えています。いろんな問題が解決していくんじゃないかなと思います。
それはたとえば糖尿病の人が治療をするとき、国立病院にしかその場所がなく、京都府で糖尿病を治すのはそこしかないとなれば、どれだけの方が糖尿病で命を落としたり、危機的な状況になったりするでしょうか。薬物依存者が回復できる場所は伏見区の西浦町、両端に住まいが二つ、そこしかないわけですね。京都府の南部、北部の舞鶴や福知山で薬物依存症の問題を抱えながら何とかしようと思っても京都DARCに通ってきなさいといっても、なかなかできない。そういう場所がそこにあれば早い段階でトリートメント、取り組みにかかわって回復していくチャンスがあると思います。
昨日、福井の方が相談に来られました。女性の方ですが、福井から通ってくるというのです。特急に乗ってですよ。往復で1万円くらいする。毎日通うことはできないので、選んだ方法は福井から出てきて、ここで安いビジネスネテルで2日ほど泊まって帰る。毎日行き来するより、安くあがるし、その方がこちらで時間もとれるし、皆とミーティングもできる。どこまでできるかわかりません。まだ1日もやっていないので。「やってみましょう」と僕はいいました。本人も「やってみます」と。数日後、来られると思います。
もっと、DARCが、いろんな場所にあって、皆さんとつなげていくことになれば、もっと早い段階で回復することかできるし、解決の糸口になるのではないかと思っています。
この一連の話は権利というか、私たちにある回復する権利と責任だと思います。
自分たちは病気になってしまった。薬を使ってしまった。
そこに問題はあるけど、依存症という病気は自分でどうすることもできないわけです。レモンで唾が出てくるように。
かつて薬をやって悪いことをして刑務所に出入りしたこともあるけど、薬をやめようと思っている人には必要なサービスや福祉、場所を提供していく、そういう場が地域にあってほしいと思います。京都保護監察所が上京区は御所の北にあります。その横に社会復帰センターを作ろうとしました。大反対にあいました。「この地域には年老いたものと子どもがたくさんいる、落ち着いた街だ。なんでこんなところにつくるのだ。つくるなら、もうちょっと場所があるやろう」。それはどこでしょうか。そういう人たちがいても悪くない場所だというのは、ここだという地名は出されませんでしたけど、「もっと似合った場所があるでしょう」。そういう発言をしたと聞きました。僕はその発言はひどいなと思いました。この地域には近くに京都拘置所があったり、南に行けば少年院があったり、隣町には刑務所があったり。閉鎖された少年院がいいということでしょうか。
もしくは、人里離れた山の中につくれというのか、わかりませんが、こんな場所にはつくらんでええやろという反対があって、未だにできていません。もう少し、こういった対応が変わってほしいなというのが僕の思いでもあります。

4.資料から見えること
資料の中の研究、調査からお話をします。薬物乱用に関する全国中学校意識実態調査というものがあります。薬を乱用する子どもたちとは、どんな子どもたちなのかということでアンケートを取り、調べたものです。そこで書かれているのが「家庭生活のあり方が大きく影響しているように考えられる。経験者群では親との相談頻度、家族との夕食頻度が有意に低く、逆に大人不在での時間が有意に長く親子共有時間が少ない傾向が再確認された」と。これは薬を乱用した子どもたちは家族と過ごす時間が少ない。親との会話が少なかった。そういうことが傾向としてあるということです。
子どもとの時間をとらなかったら必ず薬物依存症になるというわけではないんですよ。薬物を使いだした子どもたちに話を聞いてみると自分たちはそういう状態であったという答えです。またDARCにいる人たちの多くの人が孤独感、寂しさを共有しています。
一人でいることと孤独は違うんですね。多くの人の中でも孤独は感じます、一人でいても孤独は感じないこともあります。それは一人でいても、あの人が、そこにいる、あの人が待っていると、その人に思いを馳せることができていれば、ちゃんと自分のやるべきことをやったり、普通に過ごしたりできるわけです。しかし、家族との絆が希薄で、心のよりどころのない孤独な子どもは、ファッと違う世界にいってしまう。そして、自分と同じような孤独な子どもたちと出会う。しかし、遊ぶ場所がない。どこに行くにしてもお金がいる。お金のない。しかし、時間だけは存分ある子どもたちが簡単に遊ぼうとするとドラッグが手っとり早い。瞬時に、鬱屈した気分を取払って、気持ちよくさせてくれる。感覚がかわる。そういう子どもたちが薬に手をだしやすいことは十分に考えられると思います。
昨今、離婚家庭も多く、シングルマザーで子どもを育てる家庭も多い。夜、遅くまで働く母親は、子どもとの夕食を共にすることも困難な状況にあります。ですから、親が必ずしも自分の子どもの面倒をみていないといけないというわけではなく、地域が子どもたちをみていく、子どもたちが、安心できる場所を作っていく、そうなれば僕は問題行動を起こす子どもたちも減るし、薬物を使いだす子どもたちもまた減るのではないかと思っています。
その後は大学生に。どんな薬物を使っているかを聞いた数字ですが、大学生の新入生の薬物乱用経験率は2.8%。1000人いれば28人の人が薬物を使った経験がある。18年度、京都府の学生の数が16万人だそうです。これを2.8%で見ると京都府内における薬物乱用実態は大学生で4500人くらいが薬物の経験をすると見てもいいわけです。大きな数字です。この中から単発的に使って、やめていく人もいる。依存症になっていく人もいる。誰が依存症にならず、やめられるかはわからない。
薬物の種類としては、以前はシンナーとか有機溶剤が圧倒的に多かった。しかし、今は次第に、シンナー少年は減っています。とって代わり大麻が増えています。また、変わったところでは、ライターのガス、カセットコンロにつけるボンベのガス、あれを吸うわけです。そういう薬物の使い方をするのです。なぜこういうものになっていくか。これらは、違法ドラッグではない。ガスを持っていても吸っても、逮捕はされません。
DARCの退所者が、公園でガスを吸っていて、それを見た近所の人が警察に通報をした。即、警官がかけつけたのですがガスを吸っているのを見ても警官は取り上げることすらできない。見ているしかない。近所から苦情が出ているから、公園から出ていけと注意するぐらいしかできない。で、その公園から出ていって、よその公園でまたやる。また警察に通報があってパトカーがいく。「またここでお前、やっているのか。やめとけ」と注意はするけど、とりあげたり、捕まえたりすることはできない。で、警察からDARCに連絡が来る。
シンナーもそうですね。子どもだと違うかもしれませんが、成人でシンナー吸っているくらいでは逮捕しません。京都DARCを退所した人ですが、2回、シンナーを使って警察につかまえられました。二度とも翌日には警察署を出ています。シンナーを使っていたくらいでは逮捕しないのですね。シンナーの検挙数が劇的に減っていますが、ちゃんと捕まえたら、もう少し数が増えるかもしれない。工事現場からシンナーを盗んだら逮捕できるけど、単純な使用では捕まえることはむつかしいのでしょうか。
今、世間では、ずいぶんと薬物の問題が騒がれ、少年たちが使いだして、低年齢化が大きな問題だと言われていますが、実際には少年犯罪は減っているのです。その数は劇的に減り続けています。少年のタバコの喫煙率、飲酒率も減ってきています。それなのに、子どもたちの薬物の問題、素行、不良行為が大きく取り上げられるのはなぜか?
かつては、目に見えて「不良や」と言われる子どもたちがシンナーを吸い、暴走行為を繰り返していた。それはすんなり、世間の意識の中に入るわけです。「やっぱりあそこの子、シンナー吸うてたか。そうやろな、不良やもん」と落ちつくわけです。
でも京都大学や同志社の大学生が、覚せい剤や大麻所持で捕まったらヘェーッと驚くわけです。何度もそれがテレビで繰り返し放送される。強烈なインパクトとして視聴者の目に入ります。それでまた子どもたちが悪くなっている、ひどくなっていると錯覚してしまうようなところもある。
それから、大麻は増えてきている。薬物の種類も、かつてはシンナーが圧倒的多かった。今は、シンナーより大麻の方が多くなっています。危険性から見ると、大麻の方が少しは安全なのです。そう思うと子どもたちの選んでいる薬物はリスクの高い薬物からリスクの低い薬物に移り変わっているとも見てとれる。一概に悪くなっているという見方はできない。逆に子どもたちは少し、ズル賢くなったといえるかもしれない。捕まらないようなものを選ぶようになってきたと思います。インターネットなどで、いいかげんな情報を無造作に受け取り簡単に信じてしまう傾向にもあるのでしょう。
最近知ったんですが、京都では、大麻のことを隠語で「ビシ」というそうですね。それはビシッと決まるというところから「ビシ」と呼ばれたりするらしい。覚醒剤を「えびセン」とかね。「やめられない、とまらない、カッパえびせん」にたとえて覚醒剤をえびセン。その時代、時代にあわせて、いろんな隠語が出てくるので、ちょっと街で会話をしていても他の人にはわかりません。また、メールでのやりとりも多い。ビシ1g0.3Kとか。何のことかわかりませんけど。大麻が1グラム3000円ということです。インターネットにやり取りされていたりします。僕たちが使っていた頃は覚醒剤とシンナーとそれくらいしかなかったものですが、さっぱりわからないような薬物が一杯出てきています。
最初に使いだすドラッグは逮捕されにくいものや街で比較的手に入りやすいものです。また、比較的安全であるという間違った意識もあるのでしょうがそこが落とし穴です。
薬物、覚醒剤、大麻、少年非行のことが数字として出ています。覚醒剤の犯罪規模はここ10数年くらい同じような感じですね。爆発的に増えていませんし、減ることもない。押収される量は時にまとまった量が押収されると、1回の押収で昨年の1年分を越えたりと変動が大きいので、押収量で薬物犯罪が増えたと単純に見ることはできません。ここ数年の逮捕者数は、ほぼ横ばい13000人弱が覚醒剤取締法違反で捕まっています。
薬物の種類と傾向。ここも少々わかりにくいと思いますが、まずは、アルコールとニコチン。向精神薬、これは精神科で出される薬ですが、ものによっては内科医の先生がちょっとしたことで出してくれるような薬物でもあります。これをきちっと用法を守って飲む分には必要な方がおられますし、それで健康を維持できる。しかし、何の問題もない人がこれを飲むとドラッグ、気分を変えるようなものとしての効力を示す。
向精神薬の乱用も大きな問題です。特に日本は向精神薬の乱用が特別多い。アメリカでは日本とは、保険制度が全く違います。アメリカには国民健康保険制度がありませんから、個人で生命保険や傷害保険に入って病気になったらその保険で治療を受ける。アメリカでの無保険者は15%と言われています。アメリカの医療費は高く、実費で医者にかかって薬を出してもらうのはとても高い。日本は健康保険制度が充実していますから医者にかかって薬をもらうのはとても安くすみます。
そういった背景もあり、向精神薬を乱用するのは簡単です。朝からA診療所に行ってたくさん薬をもらう。昼からはB診療所に行って同じ症状を言ってまた薬をもらう。夕方、C診療所に行ってまた薬をもらう。そうして1日で3倍の薬を手に入れることができる。行けば行くだけ手に入るわけです。それが日本ではできる。また結構簡単に出してくれる医者も多いので向精神薬の乱用が多いわけです。
向精神薬の流通量、使用量は飛び抜けて高い。アメリカの確か10倍くらいじゃないですか。特殊な薬物乱用の時代に入ってきていると言えると思います。
アメリカではリタリンの乱用がないのに、日本でここまでリタリンの乱用があるのも保険制度の悪用のしやすさと街でのドラッグの価格の高さだと思います。
また、最近騒がれたリタリンはADHD(注意欠陥・多動性障害)の治療薬として使われています。アメリカで子どもたちに、ADHDの治療で使い、それに依存してしまったとき、病院で数多くリタリンを処方してもらう難しさもあり、そのため、そのような形で使い続けることを選択するよりも街でクラックとか、コカインとか違法薬物を手に入れることのほうが安いから、リタリン依存症はアメリカではほとんど出てこないということでしょう。
たまに、子どものリタリンを親がとって飲んだりする。そういうことは起きますが、日本のような大きな問題が起きてないのはこういった違いなのです。
また、日本はヘロインとコカインは価格も高く、流通量も少なく逮捕者数も少ないです。
こういうふうに薬物の話をしてきましたが、これらの薬物はどこでどんなふうにつくられているか、
覚醒剤、大麻、ヘロイン。大麻、ヘロインはアフガニスタン、覚醒剤の生産国と言われているのはフィリピンです。覚醒剤は、北朝鮮がつくっているのではないかとも言われています。コカインは南米コロンビアなど、これら地域は、結構混乱し、紛争や戦争も起き、いわゆる発展途上国です。貧困の問題があります。そういう貧しい国が違法ドラックの生産国となっている。
アフガニスタンではヘロインのほぼ80%以上は生産されていると言われています。農家のおじいちゃんが芥子畑の中で、ニコニコと笑っている写真を見たことがあります。無邪気な顔です。生きるため、食べていくために芥子を栽培しているんです。芥子や大麻は、比較的、痩せた土地でも育つ。悪い人たちが彼らにつくらせるのです。貧困にあえぐ人のいいおじいちゃんを騙して「ここで栽培しろ。できたら、買ってやるから」と作らせ、安価で買い取る。それが、工場で精製され、日本やアメリカなど、裕福な国へと流れてくる時には、こういった国では信じられないような高額となっています。
高校とか中学校で薬物の話をすると「なんでこんな悪いものが日本に流れてくるんですか、誰がつくっているんですか」と言います。もしそれを解決しようとすれば、アフガニスタンの痩せた土地で、その地域で住む人たちが安全で安心して暮らせる農業を教え、作物をつくる指導をしていく。そういうことに取り組むことも必要でしょう。実際、日本人でそういうボランティア活動をしている人たちもいます。単純にだめだと言うだけでは解決しません。僕たちが「百均」が、安いからと購入する。自分たちの暮らしが楽になると思う。しかし、結果的には安い賃金でそれをつくっている人たちがいる。その人たちの暮らしは大変です。
なぜこんな話をするかというと、この地域は同和地区と言われていた地域ですからね。僕自身も過去、在日でした。今は、日本人の妻と結婚し、日本国籍となっていますが、幼い頃は、そのことで、差別を受けたこともあります。DARCの利用者にもそういう人たちが少なからずいます。
貧困も問題なのです。貧困=ホームレスではない。富裕層と貧困の二極化が目立ちます。薬物依存は、その貧困層の中では大きな問題としてあるのです。刑務所の受刑者の多くが、そういう人たちです。覚醒剤使用の罪で受刑している人たちは、全体の30%を超えると言われています。窃盗が40%、あとは詐欺や殺人などです。詐欺といえば、振り込め詐欺、リフォーム詐欺、結婚詐欺などを思い浮かべますが、実際に刑務所にいる詐欺犯のというのは多くが無銭飲食です。食べる物がなくて、犯罪に走る貧困層です。なんでそんな人たちが刑務所に残っているのか。
事件を起こして裁判をする。お金のある人は私選弁護士をつけて徹底的に裁判の場で闘えるわけです。保釈金を積んで社会に戻ってくる。戻っている間に就職しましたというプラスに働く証拠を出すこともできる。しかし、お金のない人は、私選弁護士をつけることができません。国が最低限保障した国選弁護士をつけるだけ。覚醒剤の事件で一度も弁護士と面会をしないまま、そのまま裁判になった人もいる。勝ち組、負け組みとよくいわれる時代ですが、裁判の中でも勝ち組と負け組とに分かれる。
裕福な薬物事犯の人は、DARCに情状証人に立ってほしいと弁護士に依頼する。贖罪寄付もする。僕も何度か、家族や弁護士に頼まれ裁判の情状証人にも立ちました。このように裕福な人は裁判を有利に進めていけます。そういうことで罪が軽くなり、時に刑務所に行かなくても済む執行猶予判決をもらう。しかし、お金のない人は、拘置所に入れられても、ただの一人の面会もなく、裁判も事務的に進み、刑務所に行くことになる。
刑務所出所後、お金がなくて万引きや無銭飲食をしてしまい、刑務所に行かざるを得ないこともしばしばです。一人暮らしをしているような人は、アパートにある家具や衣類、思い出での品、すべての財産を手放さないといけない。刑務所に持っていけるのは飛行機の機内に持ち込めるようなキャリーバック1個程度。限られたものしか持ってはいけない。あとは全部手放さないといけない。刑を終えて、出所してきたときは、帰る家も家財道具もない。着の身着のままのような状態です。
かつては文化、習慣、国の違いで差別的な排除というものが起きていましたが、今は富裕層と、そうでない層との間で利用できる福祉サービスや制度に格差が生じてくる。そのために不利益を被る人が出てきている。今はそういう時代です。
伏見区にある龍谷大学教授の浜井先生もおっしゃっています。京都刑務所についての記事の中で一言、改革をしていくことをしなければならない。刑務所にいる人は弱者である。刑務所の中での教育も含め、社会の中の福祉サービスが充実していれば刑務所はそれほど必要ではなくなっていくでしょうと。
世界から比べると日本の刑務所にいる人たちは人口対比的には少ない。いい国だと思われたりしているところもありますが、海外の司法関係者たちや学者たちの中で、「刑務所に入る犯罪者はもっと重罪であるはずなのに、日本には、なぜこのような微罪の人たちがたくさん刑務所にいるんだ。これは異常なことではないか」ともいわれることもあるようです。
こういったことは僕自身、DARCのスタッフになっていろんな方とお話したり出会っていく中で教えてもらい、気づかされたり、驚いたりしてきたことです。
そういうことを考えあわせると、違法ドラックに手を出した者に、ただ一方的に「使った人が悪い、自分の意思で我慢して頑張ってやめていけ、ちゃんと社会に戻ってこい」というだけでは解決できないところがあるのではないか、自己責任だけでかたづけてよいのかと思います。
このへんで、終わりにしたいと思いますが、僕自身が話したことで、わかりにくかったこと、もうちょっとここを聞きたいとか、個人的な感想でも結構ですので、何なりと、ご意見、ご質問をどうぞ。
僕が一方的に話して終わってしまうと「加藤は勝手なことばかりいいやがって」と思われているのと違うかなと思いますし、皆さんの反応もほしいわけです。この問題についてこの時間、皆さんと分かち合えたんだなという気持ちを持って帰れればなと思います。
長時間、お聞きいただきましてありがとうございました。

質疑・応答
質問 DARCリハビリテーションの運営はどのようになされているのでしょうか。
加藤 かつては自分たちの活動に賛同していただいた方々の寄付、献金だけですべて賄っていました。スタッフたちもひとつ屋根の下で、入寮者たちと共に暮らしながら、給料もなくやっていました。
今の京都DARCは4分の1が寄付や献金です。もう4分の1は入所する人が受給する生活保護制度や自己負担分からの収入。4分の1が障害者自立支援法の福祉サービス事業の中で共同生活介護事業の支援費。4分の1が、自分たちが刑務所や中学校、高校などにいって話す講演料などで得る事業費の収入です。また、今年度中に申請しようと思っていますが、日中の場としての福祉サービス事業に認定を受けて支援費をいただいて運営していけるようにしようと思っています。20年度、京都DARCは3000万円程度の予算規模でした。

質問 今おっしゃっていたように、シェルターがたいへん少ないですよね。医療機関に勤める者としては、一昔前のような薬物依存の患者さんは減ってきました。ただ現実問題として、その方々が減ったとは思えないです。その方々がどこへ行ってしまったのか。今2つの問題を私は気にしていまして、加藤さんがおっしゃっていたように、薬物依存になる人たちがどういう人たちなのかというようなこと、これは大きな社会問題ですね。それともう1つは、いったんそうなった人たちが、また同じような罪を犯すんじゃないかという社会からの恐怖や、偏見、そういうことが、フレームアップされる。そういう時代背景の中、DARCを紹介した新聞記事を何年か前に見まして、伏見でこういう活動をしている施設のあることを知って、この講演会の講師としてお招きしてはどうかという話を提案しました。
シェルター作りに加藤さんが希望されることは何か。運営資金の4分の1が寄付金等の献金で、あとは色々なものを公費として支援を要請されているということですが、シェルター作りを阻んでいる大きな原因の1つは偏見でしたよね。京都のほうでも中々できない。
こういうことについて、加藤さんの率直な気持ちをお聞かせいただきたいです。
加藤 一緒にもっとやれたらなと思うんです。専門家の方々はプライドがあるのかしりませんが。もっと協力すれば効果が上げられるものがたくさんあると思います。DARCがミーティングをやっている。保護観察所でも独自にミーティングをやっている。うちはうちでやるみたいな。そんな感じなんですね。そこをもっと協働して「この部分はやってください。ここはうちに任せてくれ」と保護観察所も医療も一緒になって話しあって地域の回復の環境づくりができたらなと思います。アルコール依存症も薬物依存症もそうですが、ある種、特別な病として取り扱いすぎたのではないか。かつてアルコール依存症がアルコール病棟と名付け特別な病気であるかのように、それが一部偏見をつくってきたのではないか。どこの精神科も診療所も統合失調症、そううつ病、神経症と同じようにアルコール依存症も見ていけたのではないか。それを特別なものとしてやったために他の医療機関は手をつけなかった。「アルコール依存症ですか、どこどこにいってください」。薬物依存の人たちはなおさらそんな感じです。「薬物依存症の治療はやっていない」と。京都で入院できる精神科病院がほとんどありません。薬物依存症の人が安全に安心して、直接、相談ができる病院もあまりないと思います。電話をかけてお願いしても「ベッドが一杯です」と断られる。唯一、受け入れられたのは、これまで京都府下の病院で三人、近くで一人、北部で二人。この5年間でたったそれだけです。利用できる医療機関が非常に少ない。一緒に集まって考えていただけないかと思います。厚労省も依存症対策で、全国15カ所の市町村にパイロット事業として1件につき年間300万円の補助金を出そうと準備しています。
これに申し出て「うちの地域でこんなことをやるから出してくれ」と、手を上げる自治体がほとんどない。全国で15カ所ですが、まだ余っているというくらいですから。こういったことについても、もう少し皆さんと一緒に考える場をつくっていければと思います。