貧困ネットワーク京都(2014)

○加藤(博) 皆さん、こんばんは。暗に、このネットワーク京都で、働くとはどういう意味があるのだろうかということで、この間ずっと連続の講座をやってまいりました。障害をお持ちの方にとっては、働くということが、なんかこう、働ける障害者はよい障害者で、そうでない障害者はだめな障害者みたいな、そういうことがある。これをどう考えていったらいいのかということがありました。それから、刑務所を出た人を支援するさまざまなプログラムについての話もありました。きょうはシロダさんがみえていますが、さまざまな立場からもお話をいただいてきました。
きょうは依存と言いますか、アディクションの人を支援する立場から、働くということを考えていくということで、京都DARCの施設長の加藤武士さんにご登壇いただくことになりました。少し我々のPRが不十分で、参加が少のうございますが、またおっつけ来られるかと思います。貴重な時間でありますので、それでは早速お話を伺っていきたいというふうに思います。
おおよそ、どうしましょう。どれぐらい、先にお話をいただきましょうか。

○加藤(武) どれぐらいでも。

○加藤(博) そうですか。では、まず1時間ぐらいお話いただいて、あと、やり取りを大事にしたいというふうにおっしゃっておられましたので、皆さんと質疑を重ねつつ、このテーマに迫っていきたいというふうに思います。よろしくお願いします。

○加藤(武) はい、よろしくお願いいたします。
あらためまして、京都DARCの加藤です。きょうはよろしくお願いいたします。座って、失礼します。
加藤先生のほうから、『京都DARCから見える働き』というテーマでというふうにリクエストがあったのですが、
その後、特に打ち合わせもなく、きょうにいたっていまして、じゃあ何を話したらいいのかなというまま来ました。きょうお話することについては、まず自身の薬物依存症、自身がどんなふうに病なり、生きてきたのかというところと、DARCの実践、安全で安心できる場所、それはどういうことなのかをお話したいなと思っています。
まず、「働く」という言葉ですが仕事とか労働とか、いろんな表現があると思うのです。職業、ビジネス、役務、任務、役目、労働、バイト。寄与すること、使命などがあります。自分なりに、ネットなんかをググって拾い起こしてみたのですが、こういったキーワードを交え、DARCのことをお話していければと思います。
今の僕自身に与えられている役割として、施設長という役割を与えられていると自分自身は思っています。それは、自分が目標にしてきたわけでもないし、そうなりたいと思ってなったわけでもありません。全然違う夢を持っていました。今、僕は46歳で、妻と子どもと3人で暮らしています。
僕自身が薬物の問題を抱えだしたのはいつごろかと言いますと18歳のときでした。それは職場で仲よくなった友達が大麻をやるひとで、「やったことあるか」と言われて、その時、ちょっと強がって、粋がって、実はやったことがないのに、「やったことがある」と答えたんですね。それまでの自分も強がったり、自分を演じたり、そんな生き方をしてきた僕にとっては、そのときも何となく、その場しのぎでちょっとしたうそをついて、「まあ、大麻ぐらいやったことあるよ、それがどないしたん」という感じでいたかったのです。でも彼は、「じゃあ、一緒に吸おうや」ということになって、僕はそれまでドラッグというものにまったく関心がなかったのに、使わなければならない状態になったわけです。みずから望んでやったというよりは、ちょっとしたうそをついて、うそをつき通すために大麻を吸う。もう、「うそや、実は吸ったことない」と言えなかったのです。なんか、大麻を吸っていないことが恥ずかしいことや格好が悪い感じがして使ってしまいました。使ってみると、なかなかこれが気持ちよくて、楽しくて心地よくて、いいものだと思いました。学校の薬物乱用防止教育なんかでこんな話をすると「使っていい話なんてしないでほしい」なんて叱られたりします。でも、薬物との最初の出会いとはそんなものですね。この最初のときに痛い目にあっていたら、僕は二度と大麻なんて使わなかったかもしれませんが、程よく酔ったし、気分は高揚したし、何というか、いろんなものを見たり聞いたりする刺激がさえた感じがして、「ああ、こりゃあいいな、お酒を飲むよりこっちのほうがいいや」と思ったのです。でも、皆さんは使わないでくださいよ。「ああ、これいいな」なんて感じていた10代でした。酒もたばこもやっていた未成年の自分は、酒の量が減り、大麻が増えていきました。大人たちが、夜の街で酒を飲んで、管を巻いて人とけんかをしたり、路上に嘔吐したりしていることを考えたら、自分はちゃんと働いて、友達から譲ってもらった大麻を、楽しく平和に和気あいあいと使っている分には、「こっちのほうが、まったく問題ないじゃ
ないか、何が悪いのか」というぐらいの気持ちでやっていて、じょじょに薬物に関心や好奇心が出てきました。そして、いろんな薬物を使っていくことになったのです。
18歳の僕が、取り繕ったり演じたり強がったりしていたかというと、僕は実の親に育てられずに、里子に出されていました。実の父親はおらず母一人で育てられなかったようです。母は水商売をしておりました。そんなことで小学生のころにいじめなんかも受けたのです。いじめから抜け出す有効な手段として僕が学んだことはお金を使うことと暴力。これで、いじめが収まるのです。お金は親の財布からお金を盗んで友達にジュースをふるまったりしている間は、いじめられることはない。そのグループの主導まではいきませんが、「僕がおごるから、ジュースを飲みにいこう」と言うと、みんな付いてきていじめないわけですね。でも、場面が変わればいじめられたりする。
もうひとつは暴力、けんかをする。やり返すということを覚えて、だんだん年上の先輩からもにらまれるようになりました。そういう人たちとつきあうようになり、たばこも勧められたりもしました。そんなとき、安全にグループに居続けるためには、たばこも吸う必要があると思ったし、同じようにしなければいけなかった。初めてたばこを吸ったときは、頭はガンガンするし、それこそ嘔吐しました。吸うことその行為自体は楽しくも何ともないわけです。でも、吸わないといけなかったのです。吸わなければ、また仲間外れにされるし、いじめられる。グループを抜けて、違う所で友達を見つけるということもできなくて、何となくそんな状況で、中学生になりました。
中学生なったばかりでしたが不良の先輩は僕のことを知っている。こちらも大体の先輩を知っているというような状態でした。ですから、学校でも結構大きな態度をして学校にいたと思います。「シンナー、吸おう」なんて言われても、「俺はやらへん」と言えるようになっていたのです。僕がしたいこと、「そんなシンナーはやめて、バイクを盗みにいこうや」なんて、どちらにしても悪いことですがね。バイクを盗みにいったり、街へ行って遊んだり、けんかをしたり、そんなことのほうが僕にとっては楽しかったのです。ドラッグに関心がない、そんなやんちゃな中学生でした。
中学も卒業するころでしょうか、一緒に暮らしていた義理の姉が、中学を卒業する頃に、「手続きをしないとあかんから役所に行こう」と、行ってみると外国人登録証の発給があったわけです。指紋を外国人登録書に押しました。初めて持つ外国人登録証明書。そのときに僕ははっきりと、「僕は日本人ではなく、在日朝鮮人である」ということを知っていく、そんな状態でした。親戚といえば、ハングルをしゃべっていますし、韓国・朝鮮の文化や生活様式を持っているので、何となくはわかっていたけど、きちっと一度も説明してくれませんでした。不誠実な大人たちでした。僕が在日であることを誰かにきちっと話すこともできませんでした。いまさら言いにくかったです。
高校には入りましたがすぐに退学しました。当時は料理人になるという夢を持っていましたが、育ててもらっていた里親を離れ、住み込みで違う仕事をしはじめました。ある友達のお父さんが左官業をやっており、雇ってくれると言うので、そこで1年ぐらいはたらいていました。自分のやりたい料理の世界に入り調理師になるために、左官業をやめ飲食業に就きました。その時から実の母と同居するようになりました。
何軒か職場を変え、ある職場で出会った先輩が、大麻を吸い、ドラッグを使う人だったのです。その彼とは、気が合いまして、仕事のこともいろいろ話したし、仕事が終わってからプライベートでも遊びに行くようになりました。ある日、先ほど話したように大麻の話が出て、僕はうそをついてしまうのです。
そういったバックグラウンド持っていた僕にとって、ドラッグというのは、非常に解放された。それは、薬物があれば、ほかのことって何にも関係ないのです。在日であろうが、父親がいないとか、お金が無いとかあるとか、学歴とか、そんなの関係ないのです。とりあえず、きょう薬物を持って一緒に楽しめるかどうか、そのことさえ共有できれば、あとはもう名前すらどうでもええわけです。一緒にその場にいて、一緒にドラッグを楽しめれば、そんでええやないかと。あとは何もいらない。そのことが魅力的でもあったのです。
在日であることについても、彼女を作っても真剣に思えば思うほど、自分が在日だということをいつ話するのか、出会ってすぐにご飯を食べに行って、「僕は在日なのです」と言わないでしょう。人と出会うたびに「在日なのです」って言わないですよね。でも、関係ができていく中で、どこかでそれを言わないといけない。真剣になればなるほど、それを言うタイミングを考えるし、そのことにとらわれる。ドラッグで、はちゃめちゃな生き方をして、女の子と遊ぶというのは逆に楽なわけですね。何もそういうことを考えなくていい。僕はドラッグの単なる快楽、楽しさ以上に、そのようなことが引きこまれていくことになったと思っています。それはDARCに来てから、いろんなことを振り返りながら、自分の生きてきた人生をもう一度紡いでいくというか、検証していくような、そんなことをしてきて見えてきたことです。
そうやって、薬物と出会い使い続けていました。22歳のときに彼女に子どもができたということで結婚しましたが1年ももたず別れました。僕の薬物使用と仕事をせえへんこと。転々とするわけですよ。仕事に就いては、薬でトラブルを起こしたり、遅刻したり、無断欠勤でもう辞めます。また仕事をしない期間があって、また新しい仕事に就く。長続きしないし、ちゃんとお金も入れへん。そんな感じで、妻は出て行って、一人になり、また薬を使う。
そして、精神科病院に入院する。入院したときも、きちっと自分のことを話せずに、やっぱり症状だけとか困りごとだけしか話しませんでした。薬物のことなんて言ったら、治療してくれるとも思えなかったし、助けてくれるとも思えなかった。薬物のことを話せば、警察に突き出されるか、その病院を追い出される。そんなふうにしか思えなかったし、薬物依存症という病気があることや治療できますという雰囲気は当時の病院にはなかった。3年間ぐらい入退院を繰り返して、どんどん悪くなっていっていきました。入退院を繰り返して、もう家族さえも「敷居をまたぐな」、友達も「ああ、武士はもうおかしくなっているから、あんなやつのそばにいると、こっちまで捕まる恐れがあるから、近寄らんほうがええで」なんて言われていました。薬物のあるときには人が周りにいたけど、精神病院に入院して、ほとんどの人は面会にも来てくれませんでした。いったい自分の人生ってなんなんだろうなと思いながら、ふてくされて入院生活を送っていました。
いよいよ医者も、こんなに治療しているのに悪くなっていく一方なので、やっぱりおかしいと、「あなたは薬物の問題があるんちがうか」と言われました。病院の中でもいろんなトラブルを起こしていたので、ばれてしまったようです。「あなたは薬物の問題を持っている。使い続けるなら、この病院を出ていくか、やめるための場所があるから、そこへ行くなら治療も継続する」というようなことを言われました。
最終的にこの病院を出て、どこかに行くか。行く所も無いし、やめていくための場所を利用しながら病院に通院。その選択肢しか選択する余地がないというような状態だったので、「まあ行きます」と言いました。
自分としては、この数年間、自分なりにやめようとしたこともあったし、いろいろやってみたけど薬物をやめられず失敗し続けてきたんですね。やめようと決心しては、3か月ぐらいやめられたけど、また使う。2週間ぐらいで使ってしまうときもあったし、開き直って「やってしもたれ」みたいな感じでやり続けた日もあったし、なかなかうまくいかなかった。失敗するたびに、僕の僕に対する評価は、「俺はだめな人間だ。もう生きている意味がないんちがうかな」と、失敗するたびに、痛い目にあうたびに、「頑張っていこう」という気が薄れていくわけですね。生きるモチベーションも下がる。自殺未遂なんかをしてしまう。そんな僕にとって、「そんな施設に行っても、やめられへんわ。人に言われてやめられるぐらいなら、もうやめとるわ」なんて思っていたのですけどね。
でも、実際に行ってみると、MACやDARCの人たちは、誰も「やめろ」なんて言わないんです。「最後に使ったんはいつや」とか、「まだ使いたいやろ」とか、「何を使ってきたんや」とか聞いてきました。「いやあ、覚醒剤とか大麻です」と答えると「ほほ~大麻を吸ってたん」というように、そんな話題を、ニコニコと聞いてくれて、「2週間ぐらいしかやめていない」と言うと、「ああそうか、今しんどいやろ。でも大丈夫やで」なんて接し方をしてくれたことはすごいびっくりもしましたが、なんか心地もよかったですね。
自分の思っていることを、自分で言葉にする前に、目の前で同じような経験をした人たちが話してくれる。「そうやろ、こうやろ」なんて、まさしくその通りでした。そのことにちょっと癒されもしましたが、「病気である」と言われたことはショックでした。もう二度と薬物を使って楽しむことができない人間なのだと認めないといけなかった。どっか使いたかったし、もう一度楽しみたかったというのはあったけど使えないのだなと認めざるをえなかった。
やめていく中で、「あなたが今、望んでいることは、手に入れることができるよ。それは薬を手放すことで手に入れることができるし、この先、一生やめていくなんて考えなくていいんだ。きょう一日だけ、今だけやめよう。きょうぐらいできるやろう」なんて言われて、鼻で笑いながら「きょうやめてどないするんですか。またあした使いますよ。あした使うなら、きょう使っても一緒でしょ」なんて、そんな感じだったんだけど、「まあ、とりあえずミーティングまで、ここにおりいや」とか、「夜までおりいや」なんて言われて居るわけです。そのころ、薬を使わずに一人でいる時間がすごい長く感じて、重苦しい時間が、人といると何となく居心地がいい。そんな感じを受けて、僕はMACやDARCに行き続けたんですね。
だから、僕がやめようという気持ちが、痛い目にあうことでどんどんと強くなっていって、「何とかせなあかん」という強い決心のもとに行ったというよりは、MACやDARCに引き付ける魅力があったから、僕は行き続けることができたのです。僕は頑張っていないのです。MACやDARCという場所やそこに集う仲間に魅力があったのですよ。だから僕は行き続けた。
DARCにつながって19年になりますけど、実際に、完全に薬が止まっている期間というのは17年ちょっとなのですね。よく「いやあ、17年ってすごいですね」と言われるのですけど、別にあんまりすごいとは思わないのですよ。ほんとに、最初の3か月とか2週間とか、あのときの一日のほうがすごいエネルギーが必要でつらかったし、厳しかった。あのときのほうが「すごい」と言ってほしかった。よく、その苦しさを乗り越えてきたなと。今なんて別に、それこそ仕事もある、少々のお金もある、家族もいる、趣味もある。コミュニケーションもずいぶんと取れるようになってきたから、一人でどこにでも行ける。喫茶店に行って一人でコーヒーを飲むということもできるようになりました。当時は、そんなことは全然できるような状況ではなかったですね。
人といても苦しかったし、一人でいても苦しかった。しらふでいても苦しかったし、薬を使っても楽しめない。そんな一日を生きる。17年やめ続けている今日一日というのは、たいしたことはない感じがします。当時の一日のほうが、よっぽどすばらしい、すごく頑張ったという一日があったと思うのです。
だから、DARCや相互援助グループの中に使われている言葉ですけど、「初めて来た人が、いちばん大切な人である」。その人が、きょう一日、心地よくやめていく、そういう雰囲気がある場所でなければ、二日目もないわけです。その一日があるからこそ、次の一日、またその次の日と続いていくわけです。
施設長という役割を与えられているというのは、実際、長いこといると、いろいろやらなあかんことが出てくるのです。普通の組織といったら社長がドーンといて、新参者がコーヒーを入れたり、お茶を持ってきたりするけど、DARCは逆に、初めて来た人に「コーヒー飲みますか。入れてきましょうか」と言って、僕が「きょうだけですよ。あしたからは自分で入れてくださいよ」なんて言いながらコーヒーを出す。
DARCの利用者についても、精神病院を出てきたばかりで、処方薬を飲んで、ほんとにごろごろして、ソファーで寝転がってぼうっとしている。ほかのみんなが、一生懸命食事の用意をしたりして、「できましたよ。起きて、起きて。一緒に食べましょう」なんて言って、その人は食べて、食器もほったらかしのまま、またソファーでグタ~と寝ている。でも、仲間は、文句いいながらもその人の茶わんを洗っていま。ソファーで寝ていた仲間も、日を重ねてくると元気になってきて、ちょっと手伝うようになります。そんなころ新しい人が来ると、ソファーを横取りされるわけです。初めての人がソファーで寝ていて、この前までソファーで寝ていた人が寝られないようになるわけです。一緒に座って、恨めしそうに、そのソファーを見るぐらいになっていき、その人たちがいろいろするようになっていく。
そういう感じでDARCっていう場所があり、手助けしあっている。そういうところが、僕にはすごい安心でしたね。それは、かつての「ドラッグを持っていて、一緒にこの場を楽しむなら、ほかのことはどうでもいい」という世界と逆ではあったが、DARCは「薬物をやめたい。必要ならここにいればいい、あなたが何をやってきたかは問わない」と、「まあ、やるべきことはいっぱいあるけど、とりあえず今日だけや。ここに居たらいい」と、ゆるい感じで始まっていく回復。だからこそ、僕はやってこられたと思うのです。
そのように、少しずつ回復が始まり、僕は1年半ぐらいでDARCを退所して、薬物依存症を隠して働きに出ました。そのとき、これまで自分が仕事をしていた時の感覚とDARCに入ってプログラムを受けて仕事をしだしてからの感覚というのは、ずいぶん変わっていました。それは、「今日だけ」ということも、薬物をやめていくだけではなくて、仕事に対しても、朝起きて「しんどいな。寒いし、もう嫌や。でも今日だけ。余計なことは考えない」と。考えたら考えるほど、休む理由と口実と言いわけが、次から次へと頭に出てくる。だから、考えない。とりあえず行動。今日だけ、今だけ行こう。仕事に行ってしまうと、朝出るときに思っていたほど嫌な気もせず、仕事ができる。
ああ、なんか仕事って、働くというのはこういう感ふうにすればいいのか。これまでは、何とかずる休みとか、休むことを一生懸命考えてやってきたけど、DARCを卒業して、仕事に就いて1年間、僕は無断欠勤を一度もしたこともないし、遅刻も一度もないのです。仕事がしんどいときもあったけど、ちゃんと仕事をする自分に驚いた。大麻を吸っていた10代の頃、朝まで薬物を使って友達の家からふらふらしながら自転車に乗って家に帰るわけです。そうしたら、サラリーマンの人たちがスーツ姿でネクタイを締めてバスを待っていたり、いそいそと出勤していくわけです。そんな姿を見て、「この人たちはバカだな。機械のように働かされて、何がおもしろいのかな。大麻の楽しみも知らんと大変だな」なんて思いながら明け方に寝ていたわけです。実は人生の生き方とか楽しみ方とかを知らなかったのは僕自身で、大人たちを勘違いして見ていただけでした。自分が回復して働くようになり、今日もスーツを着て、ネクタイは締めていませんが、このようにいつも決まった時間に、いつものように出勤している。10代の頃に自分が見ていた大人たちのように、自分はそんなに嫌々仕事をしているのかというと、全然そんなことはないわけですね。
当時2000年でしたでしょうか、九州で少年がバスをハイジャックして、高速道路を走っていった事件がありましたがご存知ですか。もう12年も前になりますから学生さんは知らないかな。12年ほど前に、僕は一般の会社で働いていました。その時に事件が起き、どのチャンネルを見ても生中継でそのシーンが報道されていました。テレビで映し出されるのを職場で見ているとき、「こんな事件を起こすのは、覚醒剤を使っているようなおかしなやつやろう」、「そうや、そうや」と言って、その職場が覚醒剤を使っている人間のことで盛り上がるわけです。「こんなことは、普通ではできへん」と、僕は、その職場では薬物を使ってきたことも隠していたし、今、やめ続けるためにDARCとか相互援助グループに参加していることも話していませんでした。それで色々な活動に参加するのには、「ちょっと障碍者の方とボランティア活動をしていまして、この日は残業できません」そう言ってミーティングに参加していたんです。「お前は変わったやつやな」なんて言われながら、だから会社の人は、僕が覚醒剤を使っていたことなんか全然知らないわけです。
そうとも知らず、みんなは「こんな事件を起こすのは、薬物を使っている人間だ」と。実際は精神疾患のある少年が起こした事件で、薬物依存者ではなかったわけですけど、その場で僕が、「覚醒剤を使っているといって、みんながみんなそんなことをするわけではないですよ。僕も薬を使っていましたけど」ということも言えず、かといって「ああ、そうですね。覚醒剤を使う人間なんてこんなものでしょう」とその話に乗って、また自分を取り繕い、演じて、そんな話題に乗っかるのも嫌で、そのときに与えられていた仕事を淡々とこなすだけでした。そのときの気持ちというのは、自分が在日であることとかを隠しながら生きてきたことと通じたところもあるし、自分はこのままでええんかな。いったい自分はやめ続けるとか生きるとか、自分はなんのためにそんなことをするのかなと考え出すと、自分のやめ続けてきたことや、そんな人間ばっかりではないよということを知ってもらいたいなと思うようになっていきました。
僕はその仕事を辞めて、あらためて、スタッフとなりDARCに戻る。薬物依存症という病気があり、やめ続けていく人たちがいる。DARCだけではなく、そのほかにもかつて薬物をやっていたりして、今、働いている人は、社会の中に何人もいるわけです。しかし、その人たちが自分から、「過去に薬物を使っていました」なんて言える社会ではないでしょう。そんなことを言えば、すぐに排除される。それほど理解もされていないし寛容な社会でもないでしょう。
大阪DARCのスタッフになってから、いろんな所に出向き、いろんな出会いがありました。自分の部屋を借りる時や京都DARCを作る時もそうですけど、不動産屋に行き「物件を貸してほしい。それは、薬物依存症の回復者が集まる施設で、かつて薬を使っていて、今やめようとしている人たちが集まります。」と言ったら、「えっ」と驚かれて、まったく取り合ってくれません。その中に、「いやあ、実はね加藤さん、僕も使っていました」と、そういうことをカミングアウトしてくれる人もいました。「でも、店長には内緒ですよ。僕も昔、何度かやったことがあります。やめるのは大変だった。今はなんとかやっていますよ。だから協力したい。何とか力になりたい」と言って、力になってくれました。教育関係者にも、「加藤さん、僕は大学時代にインド旅行に行き、そこで大麻なんかもやったことあります。」なんて、いろんな人が、「自分も使ったことがある」でも、職場には内緒。そんな人たちがおりました。そんな話を聞いて、「ああ、やっぱりそうなんだ」と、みんなそうやって、実はいろんな失敗とか、ちょっと外れた道に進んだけど、そういう自分から、いまはまっとうに一生懸命やっているという人は結構いる。でもそういう人たちは、声を上げられないから、社会の人たちというのは、薬物を使う人間というのは、暴力団で、痩せこけて、暴力をふるい、裸になって包丁を振り回すような、それが薬物を使う人間でしょというイメージを持っている。「ダメ。ゼッタイ」、「覚醒剤やめますか、それとも人間やめますか」と、そういうキャンペーンをずうっとやってきて、そりゃそういうふうに見てしまうのはしかたないですよ。
今の薬物問題というのは、そんな特殊な所で起きている、特殊な人たちの問題ではない。ほんとに身近な問題です。依存症という言葉ですけど、昔は嗜癖(しへき)、嗜好の嗜に癖と書いて嗜癖という、これは昔からよく使う。手癖が悪いとかね、女癖が悪いとか、酒癖が悪いとか、そんなふうに言っていて、なじみのあったものでした。それが依存症と言い出して病気で医療の対象となり身近に感じないようになっていった。それはパソコンとかゲームとかを「12時までやって寝よう」と思っていたけど、実際に12時になったときには、「もう1時間だけ、1時になったら寝よう」と思うけど、実際にやめたのは3時ぐらいだった。本来すべき宿題とか勉強もやれずに、朝は遅刻して学校に行ったなんて、これも依存してはまっている。依存がケーキとかゲームや携帯ぐらいでは、人生に対するインパクトもそれほど大きくないから、そんなに大きな問題にならないけど、でも覚醒剤になると大事になります。
はまっていくプロセスというのは、糖尿病も似たようなもんですし、お酒も同じです。人間が悪くてしかたない者が薬を使うということではなくて、ごくあたりまえに普通に過ごしている人たちが、ひょんなことから友達に誘われ、断りにくくて使い出し、自分自身が変わっていく。実はそんなもなんです。「そんな恐ろしい人たちではない」と、「恐ろしい人たちもいるけど、それは全部ではない。変わろうと思っている人たちがいる」というように関心を持ってほしいなと思っています。
僕はDARCでやってきて、薬物依存症の人が、ほんとに安心して、何とか地域におれる場所というのは、ほかの誰にとっても安心できる場所になるんちがうかなと思うんです。
DARCに来る人たちが、生活保護制度を利用することに関して厳しくなってきています。「健康で文化的な生活を保障する」ってうたってはいますが病気でないと出さへんとか。じゃあ健康で文化的とは?という気もします。DARCで関わりながら生活保護制度を利用することでこれまでは排除されていたようなケースも受給できるようになり、薬物依存者が止めて続けていくために地域で暮らすことができるようになった。刑務所から出てきた薬物依存者とか身寄りがない人。そんな人たちが戻る場所、やり直す場所としてのDARCが担った役割は他でも役立つと思っています。
昔はそんなものがたくさんあったと思います。例えば、日雇い労働とか飯場というのもそんなものかもしれません。最善ではないかもしれへんけど、例えばパチンコ業界も、昔は過去がどうとか住民票がどこにあるとか、そんなのまったく関係ないですよ。パチンコ屋にいきなり夫婦でやってきて、「雇ってほしいんです」と言って、「じゃあ今日から住み込みで働いてください」なんて、そういうことができたんです。旅館の仲居さんもそんな感じではなかったでしょうか。そこでやり直すチャンスがあって、そこを通して生活をする場所ができ、やり直していく。ガードマンでも、昔は別に、刑務所を出てきた人でもガードマンをできていたと思います。当時は調べなかっただけかもしれませんが今はだめですね。犯罪歴なんがわかると雇ってくれない。かつては、工事現場のガードマンってそんな人がいっぱいおったわけです。そういうやり直していくチャンス、なんかグレーゾーンですね。そういうとこを通して、きちっとしたとこに戻っていくような道筋があったけど、今はパチンコ業界もアミューズメントなんて言い出して、大学卒でないと会社は採ってくれませんね。そんな業界になってしまった。ドロップアウトしたけど、やり直そうとしている人たちがやり直す場所が、減っていく一方のような気がしています。なんかそんなような場があってもええんちゃうかなと思います
それは、ひょっとしたらDARCがそのような場の代わりを果たしているようで、薬物を使ったり、罪を犯したり、暴力団に入っていたような人たちがDARCに来て、少しずつ生活が変わり、完全に暴力団と縁を切り、DARCのスタッフになったり、自分にできる仕事を見つけていく。
今日も少年院から出てきてすぐにDARCに入って、1年ちょっと経ち、少し前からアルバイトで働いている子がいます。彼は背中や指に入れ墨が入っているんですけど、アルバイトに行き出したときは隠していたんですね。年末に忘年会があったようでお酒を飲まずに参加しているんですけど、一緒に働いている同僚に19歳の子がいて、「入れ墨を入れたい」とか言っているから、店長とかほかの正社員が「お前、それはやめたほうがいいぞ」なんて言うてて、それで入れ墨の話になって「自分はどうなんや、入ってんのか、入れてんのか」なんてそんな話になって、「いやあ、ちょっとあるんです」と、ついにそれを話したんですね。そうしたら、「どこに入ってんねん、見せてみろ」と言うて、それでぱっとシャツをめくられ背中一面にスジ彫りの刺青がばれたんです。店長は「いやあ実は、俺も足に入ってんねんな」と言って見せてくれたようです。でも、その一件から、店長が、「ちゃんと仕事やったら、入れ墨が入っていても、正社員の道もあるぞ」と言ってもらえたようです。「すごいよかった。なんか自分はこんな入れ墨が入っているから、もうまともな仕事はできへんのんちゃうかな。それを知ったうえでやらしてもらえへんと思っていたけど、なんかDARCに来て、アルバイトですけど、やりだして理解してもらってうれしかった」と、そんな話を僕にしてくれました。「ああそりゃあよかったな。でも、隠しながらも、自分は変わっていかなあかんと思って酒も控えて、やることをきちっとやってきたから、道が広がって、希望が見えてきたんやから、今日までやってきたことを大事にして、やっていかなあかんで」なんて言うと「わかりました」なんて張り切っていました。
なんかそんなふうに、薬物を使う人というのは、そんな恐ろしい、怖い存在だけでもないんだと知っていただければ、また、そのことが薬物依存者の希望になるし、どんどんとそのサイクルがいい方向に動いていくんではないかなと思うんです。
刑務所にいる人たちに薬物離脱指導で話をしにいくんですが、多くの人は「まず仕事」と言いまが、「この先、自分たちが刑務所を出て、仕事に就けるやろうか。まして刑務所に何回も入るようなことしてきて、今さらまともにできかな。そうやったら、やっぱりもう逆に開き直って、これまでのようにやっていくしかないんかな。」または、「DARCに行ったら面倒をみてくれるんですか」という人がいるんです。「できる限りの力にはなる。でも、止め続けるのは自分やで」と。出所後どうしたらいいのか悩んでいます。そんなにふてくされて、「また、悪いことをしたる」というような人は少ないほうです。ほんとに変わりたいと願っている。それでいて、いちばん大事なときにやらかします。
ある人は、刑務所を出てきて、いろいろ仕事を探してやっと見つかった。でも、職場が遠くの県で、そこに行く交通費がない。刑務所で渡された作業賞与金も底を付き、交通費を作るために泥棒をしちゃったんです。そこまで行けば何とかなると思って、泥棒をして、また捕まるんです。また刑務所行きです。そんなときに、その人がDARCでもいいし、保護観察所でも相談できなかったのかと思いますが、できないんです。それで、数年間、刑務所に行くことで社会性とか人とのつながりが失われていく。出てきたときには、さらに年をとり仕事につきにくい。そんなケースを見ていて悲しくなります。「働く」って何。
最初に加藤先生と雑談をしていたんですけど、働くということ心地よい働きがいだとか、この仕事をしている自負、自分は役に立っている。そのことは、すがすがしいし非常にいいものなんだけど、働かされているとなれば、これはもう、なんか全然違う。同じことをやっていても、まったく同じ労働をしていても、片方はみずから選び、その仕事をしている。でも片方は、無理やりそこに連れてこられて、その仕事をしているとなれば、同じ仕事をしていても、その人の心は全然違うわけですね。みずから来た人は、ほんとにいきいきと仕事をするけど、無理やり連れてこられて、やらされている人にとっては地獄のような感じ。「障碍者のための工場で仕事があるやないか」と、なんかみんな同じ仕事をしているというのも、僕はどうかなと思うし、「いやあ、みんな食うために、そんなん嫌な仕事でもするんや」と。でも、ほんとにそれでいいのかなと。
今の非正規雇用なんかも、あんな形で、働いているのか働かされているのかわからへんような感じの労働は、それこそ希望がないし、若い人たちが理不尽な思いを持ち、希望の無さをもつのは当然やろうなと思います。
僕たちが働いていた頃は、バブル経済がありました。希望があるという感じで、僕たちは、やれば手に入る、いい学校に行けばいい就職口がある。そんな感じでしたけど、今の若い人たちはそれすらもない。今日は年配の方もおられるので言いにくいことですけど、高齢者の年金も負担して、みずからの人生も考えながら、次の世代のため、原発問題も考えながら、頑張っている若い人たちのことを思うと、ああ、なんかほんとに大変やな、自分たちは逆に、もうちょっと違うものを見てやってきただけ、ましやったんかななんて思うんです。やらされる仕事ではなくて、選んできた。
しかし、このバブル世代も今、危ないらしいです。自殺が多いようです。バブルを経験しているがゆえに、かつての栄光やあのときを忘れられずに、今を卑下し、悩み、自ら命を絶つ人がいるそうです。
DARCでも、ある程度回復して、次に仕事というときに、単純な労働や就労ということではなくて、「どんなことがやってみたい」とか、「どんなことが好きや」とか、そういうことを聞きながら、できるかぎりそんな道を探していければと思っているし、DARCで農業なんかをやりだしている所も多いんですが、それをやりたい人たちがやっているならいいと思います。やりたくなければ、全然やる必要はない。やりたいことをやればいい。
京都DARCでは、革細工を作って、それを売ってもいますが、やりたい人だけがやる。知らん顔をして、隣でずっとテレビを見ていたりする人もいるけど、革細工を一生懸命作る人もいる。そうやって、なんか自分のできることを見つけていってほしいなと。ただ僕自身がDARCに来て、ようわからんプログラムとかやって大丈夫なんかなと思いながらも、そのうち楽しみ方がわかってきたように、「まあちょっとしんどいけど、一緒に行こうや」なんて言って、農業なんかをやっているうちに、その楽しさを覚えていく人もいます。できるかぎり、その人がやりたいこと、やってみたいことに協力するという形で、DARCでは仕事というものを考えて、支援していくことをしています。
僕は回復の中でやらされるということなく、主体的に変わってこられたし、役割についても、働かせるということでやらされたわけではなくて、ほんとの意味で働く。自分のために、単純に賃金をもらうだけではなくて、DARCにいるだけでも、そこに役割があるし、仕事があったわけです。
重い精神障碍を持った人が、朝、スタッフが出勤する前にデイセンターに来ます。近所に迷惑になるぐらい早くに来て、スタッフが来るのを待っているわけです。「おはよう」と言って玄関を開けると、すぐにコーヒーの用意をしてくれます。いつも彼が、後から後からやってくる仲間のためにコーヒーの用意を黙々とする。みんなが集まった頃には、なんかもうそのへんのソファーで携帯電話を触ったりしながら、当たり前のようにそのコーヒーを飲んで、雑談をしているわけです。でも、その彼は昼ご飯を作るときも、ろくに包丁も使かえないので、ソファーに座って携帯電話をいじっています。さぼっているように言う人もいますが、「彼は朝一番に来て、コーヒーを入れているじゃないか」と。その人ができることをやる。できないことも人にはいっぱいあるし、できる人ができない人を少し手伝う、それでええんちゃうのと僕は思っています。
みんなが同じことをできるわけでもなく、「料理を作りましょう」と言って、みんなが包丁を持ってキャベツを千切りにする。包丁を10本も15本も用意して、キャベツを千切りにするより、「この人は包丁が得意やから千切りをしてもらおう」と、お茶わんを出してくれたりする人、買い物に行く人、ご飯を炊く人、いろんな役割があって、それでみんなで楽しくお昼の食事ができる。ときどき代わったり助け合ったりしながらする。それでいいんではないかと思う。社会にいろんな役割があるし、できることもできないこともある。金になる仕事もあれば、ならへん仕事もある。そんなことを通して、社会が安全で安心して暮らせる場になる。そんなものではないのかなというのを、僕はDARCの中での暮らしを見ながら、なんか社会も地域もそんなふうになれればななんて、なってほしいな、なんて思いながら働いています。
そうすれば、「包丁が怖い」と言っていた人も、みんなと同じおいしい食事が食べられるし、キャベツを切っていた人も、後で皿を洗ってくれる人やテーブルを拭いてくれる人、いろんな人があっていいんではないかなと思ってやっています。
だから、DARCには生活保護を受けている人はたくさんいますが、「勝手准公務員やと思って、相互援助グループの会場を開けたり、今日お配りしたチラシを作ったり、スタッフのお手伝いをするだけでも、働きなんや。お金をもらっていないけど、あなたは役に立つ、いい働きをしている。だから今は国からもらっといたらええ。気になるなら街のゴミでもひらってゴミ箱に入れとき」と、「生活保護をもらっていることに卑屈になることもないし、ただずるく使わない。アルバイトに行きだしたのに、それを収入申告せえへんとか、そんなことは許せへんよ。やっぱりできるようになったら、できることをやる。誠実にやっていこうや」と言うと、「なんかそんなん、損した気分です」なんて言うんですけどね。たとえで言うんですけど、ファミリーレストランに行ったら、最近はドリンクバーとかはただですよね。食べ放題とかもあるでしょう。「そんなんただやから、5杯は飲まな損ですわ」と言って、5杯も6杯も飲んで、腹を壊して医者に行かなあかんようになったら、どれだけの損をせなあかんねん。350円のフリードリンクを飲んで、食べ放題でがばがば食べて、それで食べすぎて太って、新しいジーンズを買わなあかんようになったら、それは損ちゃうんか。だから、なんかただでもらえるから、それで喜んで、浮かれていたら、そんな損なことはないぞ。だから、節度を持つとか、謙虚さを持つとか、そんなことを日常のミーティングの中とか、会話の中で話しながら、「そうですかね」なんて言いながら、「まあ、損している気がするんですけど」なんて言いながらでもプログラムをこなし次の役割へと進んでいきます。だからこそ、次から次へとくるアディクトの生活保護申請も、ある程度受け入れてもらえるようになったと思います。そこでごまかしたりすると、「ああ、やっぱり薬物依存者がやっていることはこんなもんだ」と思われると、生活保護を申請しても審査が難しくなっていくんではないかと思います。日ごろからDARC利用者の仲間と一緒に、生きるうえでの自分の役割、仕事、働くということを考えながらやっています。
妙なもんで、全然仕事をろくにしてこなかった人がDARCに来て、「いやあ、僕は頑張って仕事に行きたいんです。早く仕事に行かせてください」と言い、社会でまっとうに仕事をしてやってきた人が、「いやあ、前の仕事に戻ってもどうなんですかね。もうちょっとDARCで、なんか手伝いさせてもらえないですかね」なんて逆に言う。おかしなもんです。
こんな話で、皆さんの期待に応えられる話ができたのか疑問ですが、働きとか、役割とか、生きるとか、そんなことを交えて話をさせていただきました。
あとは皆さんとやり取りをしながら、足らずを埋めていったり、わかりにくいところを理解していただけたらと思います。
どうもありがとうございました。

○加藤(博) とても内容のある話だったと思います。働くということについては、これまでもいろいろ議論をしてきましたが、確かヘーゲルという人が、「環境とか他者との相互作用、インタラクションを通して、自分自身をつくっていくことだ」ということを言っています。そういうことからすると、今、加藤武士さんがおっしゃった、このリハビリテーションをされていることも一つの働きである。あるいは、DARCでチラシを作ったりされていることもりっぱな働きであることだろうと思います。どんなことをやってみたいかということ、あるいはどんなことが好きかということを話し合っていらっしゃることも、りっぱな働きなんだろうなということを、なんかしみじみと感じました。
私自身は、学校を出てすぐに精神病院に勤めたんですが、そこにやっぱり女性で、まだ高校生だったと思いますが、薬物のシンナー中毒の方が入っておられて、最終的には自殺されましたという、ものすごい苦い思い出があります。これはその後、今度は医療少年院から、男性で同じような方を受け入れるということになったときには、非常に議論になりまして、「ほんとうに、うちの病院でそれをしっかりケアできるのか。できもしないのに人を受け入れてどうするんだ」とけんけんがくがくなったことを思い出しました。またあとで、皆さん方と議論する話し合う中で、そんなことにも触れてもらえたらなと思います。
もう一つ、私のほうから先に申し上げておきたいのは、今、DARCが、刑務所の制度の中に取り込まれようとしているということがあります。この夏ずっと、5か所の刑務所に行きましたんですが、いずれもやっぱり薬物中毒の人たち、薬物依存の人たちに「DARCにいろいろかかわってもらいたいんです」、「DARCにかかわってもらいたい」と繰り返し言われまして、そうしたところが、先ほどお話をしておりまして、「社会内処遇ということで、本来の刑期を縮めて刑務所から出して、その分、DARCにお願いしていこうという制度改正があるんだ」ということをおっしゃっておられました。これも、・・・さんがセルフヘルプグループのことを、自助活動のことをずっとやってられて、ほんとうに当事者が力をつけていくということが、セルフヘルプこそがいちばん重要なんですが、その本来の純粋な活動がゆがめられていく可能性がありますね。そのことについても、少し時間があればお教えいただきたいなというふうに思っております。
お話は、非常に多岐にわたって深みがありますので、いろんなところに皆さん方と議論していくとっかかりがあるように思いますので、どんなことでもかまいませんから。かまいませんか。

○加藤(武) はい、もう何でも、失礼なことでも何でも言ってみてください。

○加藤(博) ぶつけて、・・・したいと思います。
どうぞ、よろしくお願いします。

○会場 おおきに、ありがとうございます。まったく素人で何もわからずに聞いているんですけど、DARCって、なんでDARCって言うんですか。

○加藤(武) はい、そうですね。基本的なことで、DARCは、ドラッグ・アディクション・リハビリテーション・センターと言いまして、このDARCの案内の上の所に書いてあるんですが。

○会場 見もせんと言うて。

○加藤(武) いえいえ、僕もちゃんと紹介せずにすみません。日本語に直すと、薬物依存症回復施設というか、リハビリ施設なんていうふうになります。リハビリテーションというと、足の骨を折った人が、ギブスをしたり、くっつくまでちょっと固定をしている。ある程度骨はくっついても筋肉も衰えているし、歩けへん。それをまた使えるような足に戻していくのをリハビリなんて言いますよね。DARCも、薬物を使い続けたことによって、脳がちょっと変わってしまった。その最初の大事な時期を、ちょっと安全な場所で、しらふで楽しむこととか、しらふの時間を生きることとか、そういうことをDARCでやってみる。リハビリする。練習する。「しらふで映画なんて、もう2時間も座っていられないですよ。ハッパ(大麻)でもあれば座っていられますけど」なんて、そういうことをしらふで練習する。しらふでカラオケをやってみるとか、酒を飲まずに、焼き肉を食べてみるとか、そういう練習をするというのかな。それで、「ああ、別に酒を飲まなくても、焼き肉おいしいっすね」なんて、そういうふうに言えるようになるとしめたもんかな。それが僕たちの言う、使わない生き方とか、使わずに生きるということのリハビリになります。単なる禁酒、断薬、薬物を使わない。ただ止めるだけではなくて、使わずに生きるということをリハビリテーションしているような、そんなところからこういう名称が付いていると思います。

○会場 何人ぐらいの規模なんですか。

○加藤(武) 規模ですね。京都DARCは、通所定員が20名、入所できるスペースが4名定員の一軒家が2つで8名、有給スタッフが10名ですね。今は、公的な自立支援法の指定を受けた施設なので、予算的には今年度3月の決算では6000万円ぐらいではないかなという規模です。

○会場 繰り越しですが、通所している人が20名ぐらいですか。

○加藤(武) そうですね。20名ぐらい利用できる場所で、実際に利用している人は、日々15人ぐらいですかね。内7名が入所しています。

○会場 全部で定員が20人ですか。

○加藤(武) そうです。実際の利用者というのは、15~16人です。毎日来る人もいますし、週に何度かという方もおられますし、だから、毎日そこにいる人は同じメンバーではないけど、だいたい15人ぐらいが日中いるという感じですね。
女性の割合なんて言うと、ちょっと今は少なくて、10対1ぐらいになっていますかね。大阪で僕がスタッフをやっていた頃は、だいたい3対1ぐらいでしたね。男性3に女性1、これがまあ標準的なだいたいの数字で、5対5にはならないですね。今は、10対1か7対1ぐらいですかね。女性の利用者というのが、ちょっと少ないですね。

○会場 すみません、いいですか。大阪にいた頃というのは、大阪の。

○加藤(武) 大阪にもDARCがあるんです。かつてスタッフをしていました。全国で70か所近くありますけど、どこかが統括しているわけではなくて、大阪DARCのスタッフが、京都DARCを作り、京都DARCで回復した人たちが、また兵庫県でDARCを作りみたいな、そんな感じで広がっています。その地域、地域で支援者や協力者を巻き込んで、その土地にDARCができていきますので、規模とか運営のしかたというのもそれぞれなんですね。NPO法人になっている所もあれば、任意の団体の所もありますし、奈良は一般社団法人を取っている所もあります。
それから規模にしても、5人ぐらいの小さな規模でやっている所もあれば、30~40人が利用できるようなDARCや、病院の規模に近い100人ぐらいが入れるような、そんな施設をやっている所もあります。

○会場 いいですか。運営費とかはどうされているんですか。

○加藤(武) 運営費は、京都DARCは、その多くが障害者自立支援法の報酬ですね。

○会場 障害者施設と一緒で、障害者施設扱いですか。

○会場 ・・・。

○加藤(武) そうですね。障害者自立支援法。

○会場 障害者自立支援法。

○加藤(武) 障害者自立支援法の報酬というと、どういうふうに言ったらええんかな。まったくわからないです。

○会場 だから、身体障害とか知的障害とか。

○加藤(武) 要するに、国民健康保険とかと一緒ですわ。皆さん、国民健康保険をもって、医者に行ったら3割の負担しかしないでしょう。それは、掛金をして、医療費の7割は組合が医療機関に払っていますよね。障害者自立支援法というのはどんなふうになっているかというと、皆さんが税金を普段納めている。それで、障碍なり、ある施設を利用する時の介護や支援の対価を、「利用者が1割を負担してください」と言われているんですね。9割は国が施設に支払う。DARCを利用し、リハビリを受けて、その時間をそこで過ごしたり、いろいろやるべきことをやっている時間というのは、お医者さんに行って治療を受けているのと一緒だと。だから、その負担は国が引き受ける。今は、国が9割を負担して、1割は利用者が負担する。でも収入の低い人は、もう全額を国が負担してくれます。サービスを受ける人は、実際に自分の財布からお金は払わないけど、サービスを受けたら、そのサービスに必要なお金を国が肩代わりをして施設に払ってくれる。その報酬が全体の運営費の70パーセントぐらいですかね。利用者が支払う家賃や共益費が10%。あと、今日のような講演会など、いろんな所に行って話をさしてもらっての報酬とか、刑務所の教育に参加することとか事業で10%。こういった活動に賛同してくれる方の寄付によって、10パーセントぐらい賄われているという感じですかね。

○加藤(博) だから、京都には精神障害者だけのバレーボール大会がありましてね。京都DARCは、ネクサスというチームがあるんですよ。それが、強い強い。一時ずっと優勝が続いていたんですが、最近は、ほかの精神障害者のグループも強くなっちゃって。

○加藤(武) そうなんですよ。DARCの人たちは練習せずに、「行き当たりばったりで何とかなるやろう」なんて言うて、ろくに練習せえへんのですよね。でも、ほかの人たちは年々、練習に練習を重ねて「打倒、京都DARC・ネクサス」でやってくるので負けてしまう。

○加藤(博) ネクサスは有名ですね。
はい、お願いします。

○会場 今お話を伺って、大変勉強になりました。

○加藤(武) いえいえ。恐縮です。

○会場 私の認識不足というか、DARCそのものについて、まだほとんど初めて聞いたぐらい、ちょっと何日か前に聞いたぐらいのもので、よく知らなかったんですが、実際その障害者自立支援法の枠内で、それが行われてきたということ自体、障害者運動がどうのこうの言っている中でも、ほとんど知られていないことだと思いますね。それで、実際ちょっと現時点での、加藤先生のほうからお話があった自立支援法の枠内でやっているということは、精神障害の場合には、生活介護の制度には当てはまらなくて、就労支援B型というものしか受けられないという面があって、それがまた逆に認められているという不思議なことがあるとすれば、やっぱり就労支援B型に無理やり、その精神障害の方や薬物依存症の方を当てはめるということは、非常にやっぱり矛盾しているんだなということと、あとなんか、その刑務所の刑事側にそこを使われるというのは、やっぱりなんか実績づくりというのか、いいとこ取りの考え方で、あんまりよくないんではないかなという気が今ちょっとしました。そういう意味では、薬物依存症という症状が、ほんとうに障害者として認められていることであれば、我々の中でも、もう少しきちっと勉強していかないと「やっぱり一緒の同じ障害者だよね」というピアカン(ピアカウンセラーの略でしょうか?)の世界にはなかなか今は入れていないなという感じがすごくして、ちょっと反省しているところでもあります。質問というよりも感想です。

○加藤(武) 薬物依存症というのは、きちっと医療や福祉の対象者であるというふうになったのは2000年ごろなんですね。それまでは福祉や医療の現場で、きちっと病気として見てもらえなかたのです。除外理由になっていたんですね。薬物乱用者・薬物中毒者というのは、福祉の対象外にするというような、そういう規定があったんですよ。それが、1999年に、何と言ったか、その福祉の法律が変わって、薬物依存症・アルコール依存症を精神疾患の一つとして福祉医療の対象とするという、そこから変わったんです。それまでも診てはくれていたんですが、要するに、薬物依存症というのはおまけのような、本来主たる精神疾患とは捉えずに、別の病名を付けていたようです。僕なんかは、当時はヒステリーとかと付いていたんです。他の仲間で非定型精神病とか、なんかいろんなことをいっぱい付けて、それと依存症・物質乱用とか、依存性中毒症とか、おまけのように付いて、それで障害者手帳を持ったり、障害者福祉や医療の中に診ていました。

※ 1999年、「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」の一部が改正され、「精神障害者とは、精神分裂病、精神作用物質による急性中毒又はその依存症、知的障害、精神病質その他の精神疾患を有する者」(5条)また、覚せい剤慢性中毒者に関する準用規定が廃止(44条)

○加藤(博) そうですね。

○加藤(武) でも2000年からは、きちっと依存症だけでも通るようになり、そのことで、無認可であった多くのDARCが、福祉施設として補助金をもらえるようになってきたんです。ちょうどその頃に、大阪DARCが無認可で、自由にやっていたDARCですけど、「大阪市も補助金出すから、認定施設にしませんか」と誘いがあり、1400万円ばかしのお金でしたが、もらうようになっていきました。最初は任意の団体でも補助金が出ていましたが、障害者自立支援法が動き出し法人でなければ補助金は出せない」とか言われ、法人化していく。共同作業所から地域活動支援センターへ移行、次に障害者自立支援法内施設に移行してください。どんどんと制度に引っ張られていくのです。大阪市でも市長が変わり、市の単費で運営されている地域活動支援センターはたぶん国の障害者自立支援法のほうに移行していくように年々補助金をカットしていくでしょう。そうなったときに、今使えるのは、その就労A・B型で、かつてのような共同作業所のような感じですね。でも、昔の共同作業所の頃は、「DARCでミーティングをやっていてもそれは作業の一つだ。社会に出ていくためのリハビリや練習で作業でもある。」ということで補助金も下りていました、障害者自立支援法の就労Bでは、報酬を払わないといけない。「最低でも1万円は払いなさい」と、そうでないと施設利用した人が働いてお金を払うような施設利用のしかたになるので、それを避けるためには報酬を上げなさい。でもそうなると、DARCがミーティングに参加して報酬を出す。そんなおかしなことになってくるので、就労Bというのは、現実的でないので、京都DARCは障害者自立支援法の生活訓練というのを使っています。身体障碍の人たちが機能訓練をするのと同じように、DARCの人たちは、生活の自立していく訓練をするということで事業を行っています。しかし、期間が2年と決められています。報酬単価は高いんですけど、2年という期限を切られていることも使い勝手が悪いし、例えば交通事故を起こして骨が折れて、リハビリをして、途中でまた骨が折れたとか、そういうことはなかなか起きないと思いますけど、起きたとしてもそこからまた、新規に診てもらえるでしょう。薬物やアルコールの人たちは、「断薬が1年間ぐらい続いたけど、また飲んでしまった」。それで、利用が中断したり、精神病院に3か月ほど入院した。そのままだと次に利用しだしたときには、あと8か月ほどしか残っていないなどという事態になりかねません。本来必要なことができなくなる。いったん廃止にして、また、新規に申請する。使い勝手が悪い。これは高齢者介護制度からの使いまわしで精神疾患の人たちに合ったような作り方が成されていない。依存症とかアディクションの領域では使いにくいものになっています。そんなことで自治体と、いつもやり合わないといけないんです。でも、使わざるをえないと思っています。それは、使いやすい制度にしていくのには、自分たちもその中に入らないと、外から言っても、全然変わんない。その制度をほんとに自分たちにも使えるようなものにしていくのには、やっぱり入っていないとあかんなとも思いますけど、全面的に入ってしまうと、ほんとに当事者からすればいいようにされるというのか、こうしなさい、ああしなさいと、そうしないと報酬がないということになります。今は障害者自立支援法の割合が高いんですけど、もう少し割合を下げていく。自主的にお金を集めていく取り組みをやっていかなあかんし、国に税金を払って、役所に任して一辺倒な施策でやるんではなくて、その地域や問題に合ったお金をその地域で集めたり、出せる仕組みを作る。手厚い支援が必要地域や問題に多く使う。ない地域なら少なくお金を使う。環境に多くの予算を付けなあかん地域もあれば、薬物の問題や貧困の問題に多く使うべき地域もある。それは地域によって全然違うわけですよね。でも今のお金の使い方だと、「どうなんかな」というのも、実際あるわけです。なんかもうちょっと、そういうお金の集め方と使い方というのを変えていってもいいのではと思います。京都地域創造基金さんなんかが、お金の集め方と使い方を変えようと頑張ってくれいます。

○加藤(博) 障害者手帳は皆さんお持ちなんですか。

○加藤(武) 薬物依存症で手帳が出ます。

○加藤(博) 精神のですか。

○加藤(武) 精神障害者手帳で2級や3級で出ます。

○加藤(博) 発達障害や知的障害のダブルハンディを持っている方もおられるんですか。

○加藤(武) いますね。ちゃんとした判定なり診断を受けていない人もようけいます。刑務所から来る人とか、弁護士とか裁判、司法関係からDARCにつながってくる人については、DARCから医療につなげていくことをしていかないといけなくなってきました。かつては、医療がDARCにつなげてききましたが、今は逆に、DARCが医療につなげていかないといけないようなケースが増えてきています。それは本来、福祉や医療を受けるべき人たちが、ずいぶんと刑務所の中にいたり、ほったらかしにされている。そんな人たちが多いのも事実ですね。精神疾患とか発達障碍の問題も、薬物を使ったということで、福祉・医療の対象から排除される。それはこれまでのそういう歴史が、「覚醒剤をやめますか、それとも人間をやめますか。薬物は悪い。だからそれは、医療・福祉の対象ではない。罰の対象だ」という雰囲気がまだまだ多数派でしょう。きちっと見ていこうと言いだしてまだ12年ですよ。基本的に厚労省は、薬物依存症にはお金を出すつもりがないように思えてなりません。それは去年ですか、医療報酬の改訂が行われたんですけど、アルコール医療関係者がアルコール・薬物依存症の人たちが、精神病院に入院したときは大変なので治療やトリートメントにかける医療時間も手間も難しさもあるということでしょう入院単価加算上積みを何年も訴えてきたと聞きます。しかし、通ることがなかったのですが対象から薬物を外して、アルコール依存症だけで加算要求をすると通ったというのです。だから厚労省は、どこかで薬物依存症を本気で医療の対象や福祉の対象として見ていこうとはしていない。それは司法がやるべきことと思っているのではないでしょうか。厚労省の中に、薬務課や地方厚生局(麻薬取締官がいます)なんかがあり、これまで薬物のことについては、そこが担当していたことなのです。縦割り行政の弊害でしょう。薬務課とか障害福祉課ではなかなか協働できていない。薬物依存症の人たちの医療や福祉の施策が広がっていかず、ぎくしゃくした感じが続いているのもそんなとこにあるのかななんて思います。

○加藤(博) カワカミさんは、「いわくら」ではアルコールをずっと、何かコメントとかご質問とかないですか。

○会場 私は、いわくら病院で働いているワーカーなんですけど、それこそアルコール依存の加算が去年から付いたのは知っていたけど、薬物を外してどうというのは初めて聞いて、昔は薬物依存をやっていたんですけど、私が入る前にもうやめちゃっていて、きちっとよくわからないんですが、とにかく今はお断りをしているんです。通院なら・・・入院ではアルコールに手いっぱいなのでという理由と私は聞いています。かなりやっぱりエネルギーもいるし、・・・。ほんとに自分でも全然わかっていないんですよね。ただ、アディクションの方のすごく大変だったりとか、ほんとに、特にアルコールの人のやめにくさって、ほんとにちまたにあふれているというのがあると思うんです。・・・あって、でも薬物の方はそうではないけども、一方で、それがある所でつながりができて、またやめにくくなるというようなしんどさがまた・・・というふうなこととか、どうしても、もともと始めた、アルコールの人もそうなんですけど、「自分でわあっと飲んだから、そうなったんでしょう」と、自分に返されてしまう。薬物の人もきっと、「だめと学校で習っただろうに、始めたあなたが悪いんでしょう」というふうになって、なかなかそこから理解してもらいにくい。でも、それがほんとに依存症という病気で、やめられなくなる病気でほんとに大変なんだというところをきちんと知らされて飲んでいたか、使っていたかというと、ちょっと微妙なところがあるのかなというのはちょっと思ったりするんです。

○加藤(博) そうですね。お酒は病気、でも覚醒剤は犯罪。そういう具合に分けているんでしょうね。のりピーは、犯罪。

○加藤(武) のりピーのケースは難しいですね。

○会場 最近は、合法ハーブというのが出てきていますよね。あれはだから、「コーヒーだ、飲み物だ」といって飲まされている間に、知らない間に、覚醒剤依存と同じような効果になっていくという、すごい世の中やなあと。「合法」ってわざわざ、「違法ではないよ」ってことを言いながら、薬物に近いハーブを売っているというのが、今すごいはやり始めているという話があって。

○加藤(博) 鎮痛剤。

○加藤(武) あの、合法ハーブっていうと、漢方薬って言うてんのと同じようなもんで、いろいろ種類があるわけです。薬剤にしても、何十種類もあって、それを合成してたり、いろんなもんと混ぜているので、一概に合成ハーブっていうものが、どういう薬物かっていうことは言えないんですね。ジャスミンやレモングラスも合法ハーブです。覚せい剤もヘロインもコカインも、一緒くたに薬物っていうのを言うてるようなもんなんで。
ただ、厳密に言えば、いま問題となっているのは合法ではないんですね。合法っていうのは、ちゃんと臨床したり、この薬の使用方法を取り決めして、これぐらいの頻度で使っていいっていうことを決めて、使うっていうのが合法だと思うんですね。
今、街に流通しているのは法律の枠の外ですからね。それが安全なのか危険なのかもわかんないまんま、なんの認可も受けずに売っている。ですから、売り方も非常に巧妙で、「吸ってものです」って売らないんですよ。「使い方、聞かないでください」と。合法ハーブですから。使い方は自分でネットなんかで調べてくださいと、店員は、絶対その使い方をきちっと教えない。それを教えると捕まるリスクがあることをわかっているからです。
アヘンを取り締まる法律でもありますけど、アヘンの吸引器具を売ると捕まりますけど、「これは、たばこを吸うための道具ですよ」と言って売る。でも実際はアヘンや大麻を吸っている。そんな感じが合法ハーブの現状ですね。
京都の木屋町に何軒か店があります。警察も把握していますが、それを検挙する法律がありません。

○会場 前、なんかテレビでやってた。ついこの間ね。「捕まえたいんですか、私を」とか言って、店員が開き直って言うてるのをやってた。

○加藤(博) フジ(?)さん、行かないようにね。

○加藤(武) 試供品を配っていたりするっていうのも聞きます。これは日本独特な部分もあるんです。それは、非常に違法な薬物が逆に少なかったのと。覚せい剤乱用は、バブルの頃にひとつピークがあるんですね。お金を持っていて、リゲイン飲んで、「24時間戦えますか」なんて時代です。覚せい剤を使って、派手にやっている人がいた。そういう時代もある。
今はバブルもはじけて飛んで、貧困って叫ばれる時代。どんな薬物が使われているかっていうと、若い人たちもお金がないですから、ホームセンターで売っているガス、鍋をするときに使うガスボンベね、あれ3本で300円ぐらいするのか。そんなガスを吸ったり、薬局で売られているような咳止め薬とか風邪薬、鎮痛剤系のものを万引きしたりして使う。医者をだまして、向精神薬を手に入れ乱用する。国民健康保険で安く手に入れられる。そして合法ハーブ。
だから、今はそのどれもが、警察が直接的に摘発できない薬物を若い人たちは使っています。若者が賢くもなってきたかもしれへんし、巧妙になってきたかもしれへんし、非常に取り締まりにくい薬物を乱用するようになってきています。
また医者も、そういう人たちをつくりあげている部分もある。うつのブームとかですね。うつを風邪だと言って、心の風邪だと言いながら、あれはやっぱり、まやかしであって、風邪なんて言い方はないと思います。
うつの病気にいちばん効くのは、SSRIが効果的だといって発売されたけど、うつの患者は減っていません。増えていく一方です。薬剤の販売量とうつ患者の数はどんどんと増えていく一方です。なぜ特効薬が発売されたのに、うつの患者は減らないでしょうか。逆にうつの患者をつくりあげていっているとも言えるわけです。
これは製薬会社などが、「ほんとに患者のことを考えているのか」と、企業の利益優先じゃないのかと思ってしまいます。
DARCに薬剤師の薬物依存者が利用ことがあります。彼の話だと接待があるんだと。ソープランドにも連れて行ってもらいましたし、「どうかこれを使ってくれ」と、持って来ると。そこには薬剤師が何人もいるような薬局です。そこの主任業務をやっていたようですから苦労もあったようです。最初は断っていたけど、だんだん引き込まれていったと。本来、いいだろうと思う薬を使えずに、接待浸けになって、そこから仕入れるようになる。「それはもう、いたしかたない。どこでもそんなもんやと思うよ」と。「お医者さんも、それに取り込まれているとこもあるんじゃないかなあ」と言っていました。
向精神薬なんかでも出せば出すほど、耐性ができて、逆に寝にくいからだになったりします。一錠飲んでいる人が一錠では効かなくなる。また、夜飲むことで夜はぐっすり寝むれるんだけど、朝に薬が切れ、日中ずっとしらふでいると、薬がきれてきて、だんだん渇望が起きてくるんですね。夕方にはいらいらして、いろんなトラブルを起こしたりして、早く薬を飲みたいと。ちょっとずつちょっとずつ依存していく人たちも、実際にはいて、今は医者がつくりだす薬物依存症、医原性の薬物依存症なんて言われたり、常用量依存、白衣を着た売人とか呼ばれたりしています。ひどいお医者さんばっかりじゃないですけど、問題も起きてきている。
ちなみに僕は、・・病院なんですよ。薬物依存症治療をやめた、要因にもなったかもしれない者です。病院の中でむちゃくちゃしていましたから。今はその当時いた看護師の方とかは、ずいぶんと出世して、いい役職に就いておられる方もおられますが、当時、詰所から薬は盗すむわ、他の患者からは金は盗すむわ。解放医療をいいように使っていました。当時のスタッフは大変な思いをして、僕たちにかかわってたくれていたでしょう。
薬物依存症治療は運営的にも成り立たへんっていうのもわかるし、薬物依存者をきちっと看ていくうえで社会に受け皿がないままに精神科医療が看続けることにも限界がある。精神科医療が病院だけで看る分にはできるけど、社会の中で暮らし通院となると果たせる役割も限られてくるでしょう。その精神科医療を支える地域や福祉でないと意味をなさへんと思うんですね。だから、なかなか薬物依存者を看られないが実際のところだと思うんです。

○会場 そんな・・・ことをさらっと言われると、どうしたらいいんですか。

○会場 よろしいですか。

○加藤(博) はい、どうぞ。

○会場 精神障害で、小さな・・・の会をやっておりまして、作業所も立ち上げた経験がありましてね。今のお話は、ほんとに私がやりたいようなことをやっておられるなあと。私の場合は、それができなかったっていうのは、私は、アルコールっていうか、断酒会の方とお話をしたことがあるんですけれども、やっぱり依存の方は、そういう依存してるものを断ち切ったら、基本的にはもう健康なんですね、症状がでないっていうかね。だからたぶん、事業経営もできておられると思うんですよ。そのスタッフというのは、この基本的に本人さんが中心ですね。

○加藤(武) そうですね。

○会場 だから、やっぱりそれが、精神の僕たちのとは違うかなあと。そこらへんが精神障害の中で、いわゆる神経症とかうつとか、統合失調とかと、依存とはやっぱり違うかなあというような感想を私はずっと持ってるんです。
それとあと一つは、今、依存ということで自分は病気だと。それで取り組んでやっておられて、リカバリーっていうか、生き生きとした生活をもう一度やっていこうというのはあると思うんですけど、ただ今、例えばギャンブル依存とかセックス依存とか、いろんな依存が出てきちゃうと。僕もその会をやってたら、この前、ギャンブル依存の方がいらっしゃったんですよ。その人は、自分が病気やって言われたから、少し安心したって言いはる。確かにそれはそうなんやけども、いろんな所にラベリングをしていって、それがほんとにいいんかなあっていうか、逆に偏見を助長していくというか、差別のあれになるん違うかなあと。そこらへんをどう考えておられるんかと。
それとあと、僕はこの前もちょっとここでお話させてもらったときに言ったのは、今の社会の働きのあり方が、やっぱり心の病気をつくってるんだと。だから、非常におっしゃったこと、いろんな働きがあってと思うんやけども、僕は、病気は治らなくていいというスタンスなんですよ。だから、そこらへんと依存の取り組みっていうのは、基本的に同じなんか、違うんかなと。やっぱり依存っていうのは、断ち切って、あるべき生活に帰るんだと。僕たちは、治らなくってもいいから、そのままでいいから、いうたら一緒にコントロールして、その中で楽しいある意味人生を歩んでいきたいという、そこらへんがやっぱり違うんかなあと。どうでしょうかねえ。

○加藤(武) 断酒会とかアルコールの人っていうのは、ある時期に教育をちゃんと受けて、社会に出て、社会生活も、ある時期まっとうに過ごし、50歳手前や30歳なかばでアルコール依存症になり多くのものを失う。そういう人たちにとっては、戻る場所っていうのは、はっきりと見えているわけですね。自分の戻る場所。回復する生き方。あるいは家族のもとに戻る。仕事復帰などあるけど、薬物依存症の人は10代、中学生からシンナーを覚えて、まともに学校の教育も受けずに、社会できちっと働いたこともない。日雇いのような、働いては辞め、働いては辞め、あっちこっちでバイト程度、親の仕事を手伝ってとか。そんな感じで20代後半になって、精神病院に入り、DARCにつながってくる。
じゃあ、この人たちに回復って言ったときに、どこに戻るんやと。「小学校に戻ろか」いうて、「中学の1年生からもう一回やり直そう」なんてできなきわけですよ、入れてもくれないでしょう。じゃあ、そういう人たちが、ほんとに社会の中で、どんなふうに自分自身を取り戻していくのかというと、独学で勉強することや、社会性をどこかで身に付けていかないといけないですね。だから、DARCはリハビリテーションと言いますが、時にハビリテーションって言われたりするわけです。
そういった意味では、DARCの人は全然は治ってないんです。僕も病気は治ってないんです。この嗜癖する病気をどこに活かせるか。DARCを広げていく、DARCの活動を通して回復のメッセージをしていく。その活動にはまる。それは社会的に容認されるでしょうし、受け入れられる。問題のない依存、嗜癖。他にも、・・先生も言っておられますが、「大学の教授も一緒や。一つのことを、ずっとそればっかり勉強してね、他のこと知らん。研究に依存してきたんや」と。

○会場 「嗜癖」ってどんな字を書くんですか。

○加藤(博) ワーカーホリック。「嗜癖」はこれ。

○会場 「しへき」ですか。

○加藤(武) 「しへき」ですね。
そればっかりやってきたし、そのことしか知らん。まあ言えば、「大学の教授は、変わったやつ多いやろ」と、・・先生の言葉です。

○会場 仕事中毒。

○加藤(武) 同じようなもんやと。これはちゃんとした社会的に容認されているし、役割もあるから、それはそれで成り立つ。
オリンピック選手も、ずっと走ることばっかりやし、それしかできなくても、そのことで人に希望を与えたり、夢を与えたりしているから、それにはまってやり続けていても、誰もダメだとは言わへん。
熱狂的な阪神ファンで、何年応援しても優勝もせえへんのに、負けてばっかりやのに応援し続ける。それはそれで、はまって楽しいわけですよ。でも、家族もほったらかしにして、仕事もせんと阪神戦ばっかり見に行っていると、そら離婚になるし、破綻する。でも、そこそこのはまり具合なら許されますね。
はまるとか依存するとか、どのようにでるかによって許されたり、受け入れられたりする。
お酒に対しては、日本は非常に寛容なとこもあるし、無礼講やなんて言葉があったりします。酒を飲んでむちゃくちゃなことをするのは、そのときだけは許される。そんな文化があるわけですから、薬物とアルコールが分けられたりしているのもわかります。欧米では薬物の中にアルコールがあるととらえています。
僕は、病気は治ってないと思うんです。その病的な部分をいかに有効に、受け入れられるかたちで、それを使っていくかっていうふうにすれば、それはそれでいいんちがうかなと思うんです。
学校の先生とかコレクターとか、マニアとか通だとか、匠だとか職人なんかも同じようなものでないでしょうか。卓越した技術なりを持っていると、他のことは何も知らなくても社会性がないと言われても、それだけあればいいわけですよね。
僕たちが薬を使わずに、もっと回復しようとする仲間を見つけていこうと、あたらしい仲間と出会っていこうということもまた心地よいし、そんなことに一生懸命になってれば、社会をよくしようとそれほど思ってないけど、役に立ってしまうみたいな。そんな感じで、僕はメッセージを伝えていく、その役割をしていくっていうことが治ったからやっているんじゃなくて、病気のままやっているという感じじゃないでしょうか。

○加藤(博) みんなある程度、なんらかの病気、なんらかのラベリングはありながら、この人はうつ傾向で、この人は統合失調症的なところがある。この人はノイローゼだ、アスペルガーだっていう、それは全員、嗜癖によって別の病気を予防してる面もあるし。だから、せっかく幻聴が聞こえるんだからっていう言い方もあるぐらい。

○加藤(武) 精神の病気も、結局は自分自身っていうものが崩壊しないために、死なないために統合失調症とか、解離性人格障害とか、いくつかの人格を持ってしまったりするわけですね。それは自分が存在するために、完全に破綻してしまわないために、必死に考えて取る脳の選択ですよね。
生きるための病気。そんなふうに思うんです。薬物を使っていた当時、薬物を使わずに、あのまま生きていたら、僕はしらふで、そのことを受けとめられたのか。どっかで自分の命を早くに絶っていったかもしれへんし、もっと大きな事件を起こしたかもしれない。アルコールにはまっていたかもしれない。
私は薬を使うことで、自分を傷つけながら、少しずつ自殺しながら生き延びてきたようにも思います。でもこの先も生き続けられるのかっていうと、そうもいかへん。だから微妙なことなんです。
DARCに来た人で、すぐに薬物がとまって、社会に戻っていくっていう人もいれば、10年間ぐらいDARCにいたけど、ろくに薬物がとまらへん。「プログラムやります」いうて来るけど、3か月ほどしたら、またふっとおらんようになって、薬物を使って病院に入院。出てきて「またプログラムやらしてください」。半年とまって、仕事しだして、また使って、また戻ってくる。そんなことをやりながら、10年間過ごした。でも11年目に、なんか薬物がとまりだしたんです。年ちょっと薬物がとまって、DARCのスタッフになっているんです。
そうすると、この人の人生というのは、薬物をやめていくとか、生きているとかいうことをどこで区切ってどんなふうに評価するのか、3年ぐらいで、「彼はどうしようもない人やし、もうDARCに来てもあかんわ」と。でも10年間グダグダとしながらでも、とりあえず提供できることはして、「やめるも使うかもあんたの問題や。どうする」と言いながら、10年間やってきたことが、11年目に花が咲く。この10年間、刑務所に入ることもなく、それこそ大きな事件を起こすこともありませんでした。薬物を使ったという罪は犯していますが、DARCの周辺で再発を重ねリストカットなんかもしながらグダグダしていた人が、そんなふうに変わっていくとすれば、その人の病気っていうのは、すばらしいこととは言いにくいですが、そうやって生き延びてきたんやなと、それはその人の人生でありかなと思うんです。よかったって思います。

○加藤(博) それはおおいに大事なことでしょうね。その時間を見守ってもらえる場があったということは。

○加藤(武) そうなんです。その人が変わるのに、10年間必要やったんです。自分はほんとにここにいてもいいのかと思いながらの10年だったでしょう。

○加藤(博) へたしたら、病院でぐちゃぐちゃにされる場合がありますからね。

○加藤(武) そうですね。自分で命を絶っていたかもしれません。死んでしもたら、もう回復も、やり直しも何もないわけです。まったく何もない。でも、薬物を使って、ごちゃごちゃトラブル起こしてでも、生きていることで、ある日、薬物がとまりだす。それだけの時間が必要だった。それで気付いて変わっていって、人の役に立つわけですから。僕は、それも人生やなあと思ってます。

○加藤(博) おそらく、自己肯定感みたいなものがね、なかなかつくれない依存の方がおられて、例えば加藤さんが、その人をとっても大切に、根本的なところで大切に思いつつ、信頼でいって大きく見てられて、つまり、今おっしゃった長いスパンでね。それが、思わず知らず、その人に伝わって、自分の大切さを発見していかれるっていう、そういうことが。

○加藤(武) ・・・ねえ。

加藤(博) それはDARCの、ものすごいく大事な魅力のひとつじゃないでしょうか。

○加藤(武) 5年で回復せなあかんとか、2年で自立しなさい。それができる人もいるけど、それがすべてではないと思うし、いろんな場所がいっぱいあっていいと思うんです。
さきほど、「回復してやっているから、DARCの人たちはやってこられたけど、私はちょっとできないな」なんておっしゃるけど、DARCのスタッフや施設長も何人か自殺もしています。でもDARCは無くなんないんです。それっていうのは、なんか不思議ですが誰かが代わりにその役割を果たします。だから仲間は時に潰れるけど、DARCは潰れないと言われたりするんです。
だから、僕も自分にできることをやる。仲間がよくなるのは、その人がメッセージを受け取ってやっていく。だから、彼に10年間かかわれたんです。僕が治そうと思ってやったら、「やっぱりあかんわ。俺には無理や。もう違うとこでやってくれ」ってなったけど、僕は僕にできることを提供するだけ。それでやってきたから、僕はその人にかかわり続けられたし、彼の失敗を必要以上に責任を背負うこともなかった。回復させてやったとも思わないし、死んでいても俺のせいで死んだとも思わない。ただただ僕は誠実に自分に持っているものを提供し続けるだけ。精いっぱい提供し続けるだけ。失敗して気づき、さらに、学んだことをやっていく。
きょう・・刑務所の教育で、一人の人が僕の話を聞いて、「加藤さんの話を聞いて、何も入ってきませんでしたわ」と言わはったんです。「いや、いいんですよ。入る人もいれば、入れへん人もいるし。でも、『加藤さんの話を聞いても、何も入ってけえへんわ』と、そういうことが言える空間であったということがよかったなあと思っています。「勉強します。ありがとうございます」って言って帰ってきたんですけど。そういうことが言える雰囲気がよいと思うんです。

○加藤(博) 援助する立場と基本的に、・・・さん、違うねえ。援助する立場と基本的に違うんですね。

○会場 違いますねえ。

○加藤(博) だから、ソーシャルワーカーとかお医者さんとか、指導したり援助する立場と。

○加藤(博) そうですねえ。

○会場 専門職の方とね、僕自身、これすごくいやなんですけど、じき、その専門職との協働とか専門職のことをどう考えておられますかということで、よく聞くじゃないですか。 加藤さん自身はどう思っておられますか。別に、自分たちだけでできるんやろというふうに思っておられますか。

○加藤(武) そうも思ってないんです。自分たちで、なんか好き勝手するっていうのは、危険な感じがします。ある程度、自分たちも変わって、社会の中で社会の人たちと一緒にやっていくっていうことだからです。

○加藤(博) 使えるものは使ったらいいでしょうね。

○加藤(武) そうですね。DARCへの協力がなかったら、ここまで広がってこなかったと思います。相互援助グループというのも大事だって、そういう場を一つでも増えていくように協力しようっていう、精神科医もたくさんいたし、宗教者もたくさんいたし、家族も地域の人も、そういう人たちが支えてくれて、このような相互援助の場が育ったと思います。立場を越えた援助でもありました。
だから、まったく僕たちだけでやってきたとも思っていません。今後も協力はしていきたいと考えます。でも、従属というか、なんかそういうものにはなったらいかん。法務省や厚労省のお抱え施設になることを僕たちは望みません。

○加藤(博) それだけ、ダブルログ(?)になりますね、きっとねえ。

○加藤(武) 非常に難しいんです。主体性を守りながらの協働。いちばん厄介なのは、悪意のない支援者がいちばん厄介だともいわれます。

○会場 ああ、よくわかります。

○加藤(武) 「会計はこうするもの」きちっとする。「領収書どこやったかわからへんし、大体の金額を手書きでいいですか」程度だけど、「いや、そんな領収書ないものは出せない」と。それはもう社会だから通用しないと言う。社会や組織やけど、これまであった組織の在り方だけが組織ではなく、これからのあるべき組織のあり方も、「手書きでもええやん、確認取れたら」というものもあっていいと思う。もっともらしい支援者がいちばん怖いっていうか・・・。

○加藤(博) 今おっしゃったことが、シラス(?)さんのこの、労働の病気(?)をつくっているんじやないかという。

○加藤(武) 働くことがすばらしいとかね。

○加藤(博) こっちのほうの。

○加藤(武) そうなんですね。正しいことだとか、よきことだとか、なんかそうすべきだと思っていることがね。いや、それでいいのかという気もするんです。

○会場 今の専門職っていう方に、どっちかっていうとそういう善意の押し付けみたいなものをすごく感じてしまって、専門職に対するアレルギーっていうのが我々の中にあって、どうしても制度の枠組みの中にはめようはめようっていう人たちがいるんだけども。

○加藤(武) 支援したいんですから、支援しやすい患者でいなきゃいけないんです。

○会場 言うことを聞いてもらわないと、そこの仕事じゃないんだからみたいな、そういう感じでとられたと、非常に困るのがまず一つと。あと、今お話を聞いてて、すごく我々の今までやってきた部分とちょっと違うなっていうのがあります。
障害受容って言葉があるんですけど、障害受容っていうふうな自覚症状的な、自分は障害者なんだみたいな受けとめ方っていうのはなかなか難しいですよね。

○加藤(武) 私たちの使っているプログラムのいちばん最初に、「病気を認めた」と出てきます。自分が薬物依存症であることを認めるっていうところから、回復が始まるんです。だから頑張っていく決心より、依存症者であるということ、病気に対して無力であることを認めるということから、回復が始まる。ちょっとお配りした中に、『NAの12ステップ』っていうのがあるんですけど薬物依存者って否認するんです。「そうじゃない。俺は頑張ったらできるんだ。病気じゃない」。それは非常に、病気に対する差別的なものとかがあるから、病気って認めたくない。できる人間だと思いたい。

○加藤(博) ・・・さん、もうちょっとつっこんで。納得しないでください。今、加藤さんがおっしゃった、『NAの12ステップ』っていうのは、結構、権威にのあるものなので、それはおかしいということを逆に言ってほしいわ。

○加藤(武) それはあるかもしれないですね。

○加藤)博) 今、僕はちょっと新鮮に思えたんですよ。障害受容ってのは、我々の世界からすると、とっても大事なものっていうふうに思い込んでるんですけれども。

○会場 私なんかは小さいときから、こういう自分の身体であるところが、何が自分の障害なのか、よくわかってないんですよ。歩けないことは確かなんだけど、だからどうしたみたいなところがあって。それをどう受容すればいいのみたいなとこがあって。実際に専門家の方は、リハビリテーションなんてややこしいこと言うから、「俺に社会復帰なんてあんのかよ」って、受け入れるべき社会がないのに、どうやって社会復帰するのみたいなね。だから、途中から障害になった方と我々とのギャップが結構大きくて。リハビリテーションっていう言葉を素直に受け入れる中途障害者の方と、結構そこはね、・・・。

○加藤(武) 違いますね。

○会場 そしたら我々は、障害者ってほんとになんだろうっていうところの原点がね、もっともっと研究されていかないと、なんか親父ギャグ言ってる場合じゃないなみたいなとことがあるんだけども。このDARCの名前を聞いたときに、いちばん先に思いついたギャグが、ジャンヌ・ダルクなんです。まあ、そういう話じゃないと思いながら。

○加藤(博) 親父ギャグだ。

○会場 とにかく自分では、障害をもう一回ね、考え直さないとまずいなという、今のお話も聞きながらちょっと思いました。

○加藤(博) おそらく、さっきの予算の話、これはきちっとやらんとあかんのや、領収書。それと今おっしゃった、一つの制度の枠組みにはめようはめようとする動き。そういう一つの大きな勢力というか、原理があって、一方で、こんなんでええやないかという原理があって。こんなんでええやないかっていう原理が、だからどうしたっていう原理とも重なってるんじゃないかな。だからこれ、これは結構大事なんじゃないでしょうか。大事なんじゃないかなあ。

○加藤(武) 生まれつき、手足が不自由であるという人と、交通事故でなった人と、同じ障碍だけれどその受け止め方は全然違う。さっきの例といっしょで、もともとそうあった人は、最初からそうやったから、ずっとそれで生きてきたからそれが普通なわけですよね。そんなものだと思いながら、自分は取り組んできた。だからそれは障碍が障碍とみえへんし感じとれへん。でも、途中からそうなった人は、この前まで使えたものが使えなくなっているので、それは非常に強いストレスになっているし、障碍になっていく。それらを一つのやり方で支援しようと思うこと自体が間違っているし、そんなことすべきじゃないと思うんです。支援する側にとっては、なんとなく障碍者はおとなしく言うことを聞くものと思っている人たちも多い。

○会場 ただね、基本的に(?)ちょっと逆転するのが、そういう人たちに私らが「あなた大変だね」、「かわいそうだね」、「頑張ってね」と言うと怒り出すんですよ。「俺はお前らと違うし」。

○加藤(博) それはそうや。

○会場 そこらへんをどうやってお互いに超えていくかっていうような。健常者の方に対して「お互いさま」と言うと、「お前には・・・」ということを言い始めるので。

○加藤(武) まあ、おこりますよね。

○会場 なんかそこは、やっぱり相当お互いの立場が公平に引き立てられていかないと、なかなかこの違いは埋まらないなあというふうな。まだまだ、はじまったばかりなんだなあという感じが。

○加藤(武) 僕らが使う言葉に「理解されるより理解すること」とあります。だから薬物依存症っていうのは、どういう病気か全然わからへんのが、健常者の人たちにとって普通なのだろうと僕たちが理解して生きていく。自分を理解してくれ、してくれって言うと、それは自分を生きにくくさせてしまうことにもなるので、逆に社会を受け入れる。障碍を受けいれるんじゃなくて、ずっとやっかいな社会やなあと思ってきたけど、まあその社会そのものを僕自身が受け入れることで、その中にも僕自身のことをほんとに親身に思ってくれる人もいたし、逆にそのことが感謝とか、謙虚さに通じていくっていうのかなあ。理解してもらおうと思うと、いつまでたっても、なんかわかってもらえへん、悔しいとか、なんで俺たちの活動が理解できないのかなんて恨みが募る。わからないものなんだと。差別もあるし、偏見もある社会で、僕たちは生きているんやなあなんて思いながらやっているとね、ああいい人もいるなあなんて思える。妙ないいかたですが。

○加藤(博) 北海道のうら、うら。

○会場 べてる。

○加藤(武) べてるの家。

○加藤(博) べてるの家、うら、うらな。

○会場 浦河。

○加藤(博) 浦河。幻聴大会、幻聴大会っていうのがあって、みんなで言い合って、彼がすごい幻聴を発表して優勝とかいって。「おい、そんな幻聴あったらあかんやないか」っていうふうに言ってきた原理に対して、もう堂々と、異議申し立てをしてて。

○加藤(武) 幻聴大会っていうのをやってますね。

○会場 さっき聞いてて、浦河の・・・さんがやっているべてるのような感じかなあと思って、さっき説明したことをなんとなくなんかそんなふうに。

○加藤(武) もともと、べてるの家に携わった川村先生は、札幌の精神科で初めて医者になったころ、DARCをつくった近藤氏がその病院におったりしたんですよ、患者として出会っているんです。そこではアルコール医療が行われていて、AAの12ステップにも出会っておられたようです。べてるの家から、DARCやMACに広がってきたんじゃなくて、もともとアルコールの取り組み、12ステップを使ったアルコール依存症の施設運営とかが、きっと、べてるの家をつくっていくきっかけの一つになっていると思います。べてるの家では、ずいぶん12ステップなんかも取り入れられており、当事者主体とか主権とか言われて、ミーティングなんかで病気でもええやないかと。障碍や病気に名前なんかつけたりして、できることしてればいいじゃないかという自由な雰囲気です。そういうものが妄想大賞とかで表彰しますとかなっていったのでしょう。嘆いて悲しんで生きていても、今日一日、でも自分たちの病気を自分たちで笑い飛ばして、楽しくおかしく過ごす今日一日なら、それに越したことはないじゃないかと、そんなところに通じてるんじゃないかなと思うんです。

○加藤(博) そういう労働感ですね。よほど働く、働きたいんやね。

○加藤(武) そうですね。やらされたらあかんし、ほんとに自分たちができることを見つけていくっていうこと。

○会場 すみません。このレジュメの、そこまで聞いてもまだ、ちょっとどういう意味かが、アディクトが安全で安心できる場所という意味がわからないんですが。

○加藤(武) アディクトっていうのは薬物依存者のことを指しています。

○加藤(博) すべての依存ですね。

○加藤(武) はい。要するに、DARCはアルコールに依存する人やギャンブルに依存する人たちや、さっきも言ったように、ほんとに底辺にいた排除されているような人たちが、安心していれるような場所であり続ける必要があるし、それを守っていかないといけないと思っています。あるところまではその底辺は切り捨てて、ここから安全にしようとすると切り捨てた瞬間は安全な気になるけど、またいちばん底にいる人たちが排除の対象になっていくわけです。それは結局、堂々巡りになってしまう。アディクトが安全で安心できる場所っていうのを大事にしていくっていうことが、ほかの人にとっても過ごしやすいことになっていくんじゃないかなあと思うんです。そんな場としてのDARCだったと。

○会場 私は野宿の方の支援をやっていて、ずっと支援の現場を夜回りの会の方から、蛇口の栓を締めなければいけないということをずっと前から言われてて、今の世の中は、その栓が緩みっぱなしで、むしろだだ漏れになってるんじゃないかと。わたしは弁護士なんですけど、栓を締めるために、自治体が行ってるんだと。制度をよくしていかなきゃいけないんだみたいなことを言っていってる反面、だけど、どうしてもこの世の中、その制度でがちがちで、このあるべき姿みたいなのを押し付けてくる社会なので、必然的に、どんな世界であっても、それは北欧の国でも、どんどん野宿している人が出てくるので、どんな社会でもやっぱりそういう人が出てくるんだなあということも感じながら、そういう人たちのことをだから、それこそ夜回りの会が徐々に・・・、そろそろ・・・いいかなみたいなことをやりながら、でも蛇口の栓を締めるということもやっぱりやっていくことが必要なんかなとずっと思ってきたんですけど。DARCの活動でいったときの蛇口の栓っていうのは、いったい何になるんですか。

○加藤(武) 今おっしゃってる蛇口の栓っていうのは、どんなものをイメージされていますか。

○会場 それは、だから日当たりで働いてた人たちが、それが派遣の自由化でどんどん若い人も日雇いというか、派遣で、その日、前日になってメールで知らされて駆けつけて、仕事をして日当をもらうみたいなのがぜんぜん飯場でもらってたような仕事が形を変えて広がってしまったみたいなのも、だから制度の解約、元の制度に戻さなきゃいけないみたいなことを言ってるんですけど。あまりその蛇口の栓じゃない意識はしないもので、緩むんだったら、何がだから緩んでるかどうかも、蛇口の栓があるかないかもよくわからないんですけど、DARCの中では。

○加藤(武) 例えば薬物のことに関していうと、広がっていってはだめじゃないかと、恐ろしいと、薬物なんて、社会が破たんするじゃないかと。そんなことはないんですよ。別に覚醒剤は、今日から個人の使用に関して積極的な処罰の対象にしないって言ったら、みんなが覚醒剤を使うかっていうと使わないですよ、多くの人は、どうなるかわかっているから使わない。だめだって決まっていても、それを逸脱して使うような人たちもいる。ダメと言っても、やってしまう人が若干いる。そういう社会のほうが、僕は健全だし、ある程度のが、安全な社会ちゃうかなと思います。その人たちが戻れるようなサイクルがあれば、排除していくような形になってなければ、僕は薬物を使うこともありちゃうかなと思うんです。
ある精神科医の先生が自殺する権利があるといいます。自殺というのはよろしくないし、それはベストな選択ではないと。でも、あるとき死ぬことを選択すべき状況もあるんだと。その例えとして、戦争中に上官から、誰々を殺せとう言われたときに、そういうことを言われて、その人を殺しにいく。そのことは正しいことなのかと。そんなときに、他人を自分の意図しないものとして人を殺すのであれば、自ら自分の命を絶つ選択をする。そのことのほうが、人としては正しいことだと僕は信じているし、自殺する権利も、薬物を使う行為、そういうことを選択するものがあったほうが自然じゃないかと思う。それが正しいことではないと、十分にわかっていますが。
でも、実際にいちばん自殺者が少なかったのは、あの戦争中だと聞きました。あの戦争中に入っていった時期から戦争が終わるまでが、いちばん自殺者が少なかった。これが正しいと全部そこに収めてしまおうとすることが危険な感じがします。

○加藤(博) 川端康成とか江藤淳が自死したのと、あるいは三島由紀夫が、それとやっぱり無念の中で死んでいった人とは、同列に語れないんじゃないか。つまり、今、無念の中で亡くなっていかれる方とか、追い詰まれ追い込まれてっていう方とかが非常に増えてるんじゃないかなあという思いがあるんです。

○加藤(武) でも、それも働けとか、ちゃんと自分の生活は自分で稼げとか、借金は返せという圧力をかけられて自死している人は実はそれほどの多額の借金を抱えてないんですよ。今、自殺してしまった債務者の多くが、300万ぐらいの借金でなくなっています。その人たちの年収っていうのが700万ぐらいだそうです。700万の収入があって、300万の借金で自殺するっていう人がほんとに金なくてとか、何千万も借金して破たんして自殺してるっていう人より多いわけです。

○加藤(博) それは近くに加藤さんがいなかったからですよ。そういう孤立してる人って。

○加藤(武) そうなんです。そういうことなんですよ。相談する相手がいなかったとか、どうしていいかわからなかったとか。

○加藤(博) そういう社会になってるのをどうするのかって。

○加藤(武) もしくは借金を抱えてしまい相談に行ったのに「あんたのそんな雑な経営したら、破たんするのはあたりまえ」って怒られる。そういうことでショックを受けてその後の相談できなくなっての自殺者が多いんです。本来、救う人たちが手を差し伸べずに、排除してしまう。「あんたが間違ってたんや」と、「だめなひとだ」と。「なんで覚醒剤を使う。あかんって言うてるやろ」と。そういうことがさらにその人を追い詰めていくことになっていくのと同じ。それは悪いこととわかっている。でも、そこから解決していく道筋にかかわっていくのが、弁護士であったり、税理士であったりするはずなんです。そういう人たちが「経営が正常になるようになんとかやっていきましょうよ」と。でも、結構怒られているらしいんです。「あんたのそんな頼りない計画がこんなことになっとるんやないかと。そんなもん破たんするのはあたりまえやと。何やっていたんですか」と怒られて、とぼとぼ帰って首つったとか。それは統計的に出ているようです。だから、そういう相談する機関、ほんとにその人が話できる場所、聞いてくれるような場所、問題をさらけ出せる場が、一つでも二つでもあればいいんちがうかなあと思う。正しいことが話せる場所じゃなくてね。いいことを称賛できるような場所が増えるんじゃなくて、やってしまったけどって言って、変わっていくチャンスがあるような場所も増やしていくことがいいんちがうかな。
そんなことを僕はDARCの中から、いろいろと学んでいます。支援する側になってはじめて、借金を抱えている人の問題、自殺する人、精神障碍・知的障碍・発達障碍の人たちから色々な話を聞きながら学んで、考えて、ここで話をさせてもらっているんですけど、また5年ぐらいしたら、ぜんぜん違うことをしゃべっているかもしれません。そのときは、あのときは、まだまだ病んでいました。5年たって少し成長しました。まあそんなふうに言うでしょう。まあ2~3日で言うてること変わっているかもしれませんけど、今日だけ、今の自分が誠実に話したということでいいんちがうかななんて思っています。

○加藤(博) ぼちぼち時間になりましたので、そろそろ終わりたいなと思います。

○加藤(武) そうですね。ちょっと時間もね。

○加藤(博) 個別にお聞きしたいことがあるかもわかりませんが。とってもさまざまなことを啓発していただいたと思います。非常にざっくばらんにいろんな、自分自身のことも含めて語っていただいて。働くっていうことも含めまして、再度、堀を深めることができたなあというふうに思います。
本日はほんとにありがとうございました。

○加藤(武) いえいえ。ありがとうございました。

(終了)