立命館大学(2002)

立命館大学講演録  当事者のまなざし -紡ぎなおしの物語を聴く-(平成14年)
加藤武士(現:京都ダルク施設長)
薬物依存症からの回復-大阪ダルクの実践から-

中村
人間科学研究所企画、「当事者のまなざし-紡ぎ直しの物語を聞く-」の第二回目です。今期は対人援助について、専門家が治療して援助する、される関係ではなく、当事者たちが主体的、自主的に活動しながら相互に支えあいながら援助していくことの意義、役割、大きさを再発見してみたいということが主要なテーマです。第一回目は、ご自身の子どもさんが不登校からひきこもりになっているお父さんの話でした。親としてグループをつくって活動していく中での回復、まだ問題を抱えながら、そのことも含めて認めあっていくことの大事さについて話をしていただきました。
今日は薬物依存に焦点をあて、「薬物依存症からの回復-大阪ダルクの実践から-」として、大阪ダルクのコーディネーターをしている加藤武士さんにお越しいただき、加藤さんご自身が薬物依存の当事者として、どんなふうにダルクとかかわってこられたかも含めて話をしていただきたいと思います。ダルクとかは何か、薬物依存症からの回復はどんなプロセスかも含めたお話もあると思います。でも、今日は、薬物はいけないとか、そもそも薬物依存とは何かとか、取締りの法律にはどんなものがあるかとか、薬物の身体への影響などを学ぶ啓発のための場ではありません。薬物に依存して生きるひとたちの内側を少しでも理解したいとい主旨です。当事者による回復に焦点を置いて、そこに絞ってお話していただければと思います。よろしくお願いします。

加藤
こんばんは。大阪ダルクでスタッフをしています加藤です。5名ほどいるスタッフのうちの1名です。スタッフになってからまだ2年ほどで短いです。自助的な活動には10年ほど、自分が救いを求めてかかわってから今も続けてやっています。その延長線上でダルクでスタッフをしています。
まず、ダルクはどういうところか。ダルクは17年前に、東京の日暮里で施設が始まりました。初めて施設をつくったのは近藤恒夫と言います。彼はアルコール依存症の施設に当時手伝いをしながら、自分の回復も続けていた。その話は2002年12月19日に開催する「京都フォーラム」に来ていただければ、近藤本人から聞けると思います。当時、「アルコール依存症はよくなるが、薬物を使う人たちはよくならない」とアルコールの施設の関係者から言われて、自らそこで手伝いをしながら、そうではないと感じたようです。「アルコールの施設があるように、薬物依存者のための施設もあれば、きっとよくなっていくのではないか」と思い続いて、ある日、司祭に相談してダルクを立ち上げたんです。17年前になります。その活動がどんどん広がって大阪ダルクは5番目の施設として9年前にできました。9年前にできた頃、僕はその施設につながりました。その頃から現在も大阪ダルクとつながりがあるということです。ダルクは大阪にできて2回引っ越しています。住吉区にあって高槻に越して現在、淀川区にあります。淀川区に来る時、大阪市から精神障害者の小規模作業所の認可を受けられるというメドがたって、申請をして去年7月、認可され、助成金をもらう形になりました。そのお金ではダルクは賄えるわけではなく、今も経済的には大変なのです。
ダルクは、薬を使ってどうしようもなくなっている人ではなく、「薬物をやめたい」と思っている方の施設です。よく家族の方が「うちの息子が薬を使っているから何とかしてくれ。施設に入寮させてくれ」と言ってきますが、ダルクは鍵もかかっていませんし、自由なところなので、「タバコを買いにいく」と言ってそのまま帰ってこない人もいるような施設です。ですから、そういう人にはプログラムが成立しません。「薬物をやめたい」と思ってダルクに来て初めてダルクのプログラムの果が現れる、成立するということです。「じゃ、どうしたらいいんですか。息子を死ぬまで薬を使わせておくのか」と言われるんですが、病院に入院したり、本人が辛い思いをしていく中で「やめたい」という気持ちが出てくるでしょうし、「ダルクというところがあると知っていれば、その時に来てもらえれば」と思います。自分が「やめたい」としっかり思っていない方にはあまり効果がありません。こちらも勧めません。「本当に大変になった時には、ぜひ来てください」と話しをして帰っていただくことがあります。
ダルクは僕も含めて日々のデイケアは当事者だけです。スタッフも通ってくる人も当事者だけで、専門家は一切いません。ただダルクにはたくさんの方がボランティアとして、活動や運営にかかかわっていただいています。精神科医、弁護士、大学の先生、保健センターの職員、職場で薬物依存者とかかわっています。ダルクに参加する人は、「もう一つ自分の職場でうまくいかない」、そういう人が多い。自分がやっている枠ではどうにもできないというところでダルクにかかわってくださったり、「自分自身、ダルクにかかわることで楽になっている」と言う方もたくさんおられます。
僕自身は10年前、ダルクと自助グループにつながったんです。僕は10代から薬を使いだして、酒も飲んで、仲間と帰りに酒屋に寄って樽のビールを買ったり、ウォッカとかラム酒とか買って帰って、連れの家でカクテルをつくって飲んでたり、馬鹿騒ぎを、あたりまえのようにしていました。その時、一人の職場仲間が「大麻を吸ったことがあるか」と僕に聞いてきたんです。僕は大麻を見たことはあったんですけど、使ったことはなかったんです。その時、僕は「使ったことがある」と言ってしまったんですね。「じゃ、一緒に今夜やろう」となって、その友だちの家に行って、初めて大麻を吸うことになったんですが、吸い方もわからない。でも「吸った」と言っているので、彼の吸い方を見ながら、ばれないように見よう見まねで吸って、あまり気持ちよくなかったというか、うまく気持ちよさをえられなかったんです。それが初めてのドラッグ、初めての違法薬物になりました。
なぜその時、僕が吸ったこともない大麻を「吸ったことがある」と言ったのかと思うんです。振り返って、その時に、なぜそういうことを言ったのかと思うと、多分、カッコつけたいという思いです。自分も中学から悪さをして来て「不良」と呼ばれて、そういう人間が「大麻を吸ったことがないねん」と言えずに、カッコつけて、一人前の不良で「何でも知っている」と知ったかぶりでカッコをつけたくて、そういうことを言ってしまったのだと思います。でも2、3回吸っているうちにめちゃめちゃ楽しくて「これはいい」と思いましたね。「これで僕の人生は楽しくなる。よりよいものになっていく」と思いました。僕の母親はアルコールに問題があるんです。酔っぱらいは嫌いなんですけど、自分も飲むし、酔うし、ゲロも吐く。しかし母親と同じことをしている僕はどこかで嫌なわけですよ。でも大麻は母親と違うものを使っていることになるので、母親と同じじゃないと思うことができます。こうして僕はアルコールを使うよりドラッグの方に移っていったのです。でも全くアルコールを使わなくなったわけではありません。そうではないんですが、大麻を吸っている方がよかった。
どんどん薬物を使っていきました。何でも使うのです。「これで飛べるで」、「気持ちようなるで」、「ええのが入った」とか言われると何でも使っていきました。次に覚えたのは薬局で買える咳止めです。ある日、大麻がない日に近所の薬局で買ってきて「飲もう」と。素直に飲んだし、気持ちよくなりました。「覚醒剤だけは手を出したらあかん」と自分の中であったんですけど、目の前に出された時に「吸うんやったら大丈夫や、打たへんかったら大丈夫や」という感じで吸い出して、そのうち「吸うより打って使う方がいい。量も少なくてすむ。金もかからない」と打つようになりました。薬が好きなんですね。今でも決して嫌いじゃないです。大麻は嫌いじゃないんですね。好きです。でも使わない。家には『マリファナハイ』という本があります。手垢で一杯になっている本です。これを見ながら家で大麻を育てていました。育っていく大麻の絵日記を描きながら飛んでいた人間ですから、とことん好きなんですね。薬を使うことでえらい目に会いましたが、でも決して嫌いではない。今でも好きですし、ニヤけしてしまいますね。レゲエ聞きながら、ボブ・マーリーのビデオとか見たりするとニヤついている自分がいます。
でも今は、そういうものをうまく使えない人間だと認めていますから、アルコールも大麻も覚醒剤も今は使いたくない。でも「使わないでおこう」と思っても、すぐにできるわけではない。結婚もして子どももいたんですけど、24歳の時に精神病院に入院することになりました。その1年前、妻は子どもを連れて実家に帰ってしまいました。妻が自分の荷物を引き取りにきた日も、僕は大麻を吸っていて、炬燵にはいってボケッとしていました。そこに妻と家族がトラックで来て、荷物をどんどん積んでいく。全然会話もできずに、ただぼっとしているだけで、口を開いたかなと思うと、「そのバスタオルは俺のバスタオルや」と言っただけでした。後は冷蔵庫とか全部持っていきましたね。その時も「えらいことした」とか「何とかせなあかん」と思えなくて、「これで薬を使う時間が自由に使える」という、そんな感じになっていました。その後も家に出入りする人は薬を使う人ばかりで、えらい部屋になっていました。ガラムとお香と大麻と異様な臭いのするような部屋になっていきました。
1年後、精神病院に入院することになります。どうしようもなくなったんです。お金もないし、薬を使う精神状態でなくなった。障害や被害妄想が出て、薬仲間のしゃべっている話が自分をバカにしているような感じがしたり、どんどんおかしくなってしまい、とうとう入院しました。24歳でした。それから3年間、精神病院の入退院を繰り返して、病院の中でも薬を売り買いしたり、病院の薬を盗んだり、必要以上に処方させたり、精神科で出される薬も十分にドラッグとして使えるので「眠れない」と言って出させて、別の薬に代えたり、売ったりしていました。僕にとって精神病院は回復とか治療の場ではなかった。簡易の宿泊所で、ドラッグを無償で手に入れる場所だったし、逃げる場所だった。警察とか被害妄想とか、生きづらさから逃げ込む場所でした。こうして病気はどんどん進行していったのです。遂には病院から「出ていってくれ」と言われました。それが27歳の時です。その時に条件として「あんたが本当に薬をやめるのに施設に通うなら、期限を切って入院させてあげる。これが最後の条件だ。これでできないならこの病院と縁を切ってくれ」と言われまして、もうその時、お金もないし、朝から「咳止め」飲んで、病院で薬を貰えると思って病院に行ったんです。ところがバスの中で生活保護のお金を忘れたんです。1円もなくなって「入院させてくれ」と申し出ました。初めての入院から生活保護を受けましたから「仕事をせんでも金は入る」という感じでした。
そのお金もなくして「入院させてくれ」と。いよいよ先生から「だめだ」と言われてアルコールの施設に通うようになりました。
「どんなところかな」という感じでアルコールの施設に行った。薬物の覚醒剤を使っていたおっちゃんもいたんですが、何か違うんですね。僕はアルコール依存症が嫌いです。とくに酔っぱらいが嫌いなんです。よくなったアルコール依存症の人は好きなんですけど、何か嫌で、酔っぱらって道端で寝て、ゲロ吐いたという話を聞いても「僕とは同じ病気やけど、違うわ」という感じで、「行け」と言われたから行っているという状態でした。その時「薬物依存症の自助グループがある」と知って、一回そこに行ってみた。そこへ行くと、何回目かの時、僕と同じ年代の人がアベックで会場に来て、マクドナルドのハンバーガーを持ってバーガーを食べながらニコニコして来るんですね。僕は精神病院に入院していて精神薬を飲みながら、人を気にしながら会場に来ている。前にいる人は大阪から来て、ハンバーガーを食いながらニコニコしている。ミーティグが始まって、その人が自分の話をしていくんですが、その人に魅力を感じて。それからアルコールの施設より、薬物依存の自助グループに行く回数が多くなってきたのです。京都から大阪までミーティングに参加していました。僕、何もすることないですからね。行く場所があるだけでも僕にとっては大きかったですね。病院を退院してからは夕方まで寝ていて、夕方起きて、ミーティング会場の鶴橋まで出掛けて、その人が来るのを待っている。いつもその人にミーティングを終わってから「喫茶店に行きませんか?」と声をかけると、気前よく「いいよ」と僕の話を聞いてくれたり、「こうした方がいいよ」という話をしてくれました。
そこにいた一人が「大阪ダルクをつくる」と言ったんですね。僕もその時に「行こうかな」と思ったんですけど、なかなか決断ができませんでした。ダルクに入寮することは自分のアパートも手放さないといけない。いよいよ何もなくなる。当時、人間関係は家族も絶縁状態で、薬以外の人間関係、一緒に職場で働いた人とか、高校時代の友だちも関係も続いてなかったし、薬仲間から「あいつは精神病院に入ったし、さぶい」。業界では「さぶい」というんです。もうすぐ捕まりそうな奴とか、もうすぐ病院に入院する奴とか危険人物、ドラッグ仲間からもヤバイ人間は「さぶい」と言われるのです。「あいつはさぶい」と。どこにもなかったですね、行く場所が。薬を買いにいく人間関係はあったけど、それ以外には何もなくて、生活保護で借りているボロアパートですが、それを手放すのがなかなかできなくて、結局、また薬を使って家賃を滞納して大家に「出ていってくれ」と言われて、ダルクに入寮したんです。
都合がいい入寮の仕方で、アパートを追い出されましたから、当時の施設長の倉田に泣きついて「入寮させてくれ」と言って快くOKしてもらって、すぐ入寮しました。当時、入った時は4人くらいでしたが、部屋は8畳一間と6畳の台所で4人くらい寝泊まりしていました。次から次へと入寮者が入ってきて、一時は布団を敷いたら全部布団という感じになって、押し入れも布団を出して空いたスペースにまた何人か寝るという感じで、入寮生活を送っていました。でもそれが嫌という感じではなかったですね。結構、文句言いながらも楽しく過ごしていました。入寮して僕がやらないとあかんと思っていたことは「迷惑をかけた人に早く償わないとかん」、「借りた借金を返さないとあかん」、「早く仕事をして早く社会に復帰してやらないとあかん」ということでした。でも「それは今はしなくていい。仕事もせんでいい。借金も返さないでいい。ただミーティングに行け」と。
ダルクのプログラムは1日3回のミーティングなんです。「朝と午後と夜は自助グループに行け。それだけて十分だ」と言われました。でも僕は落ちつかなくて、「借金を早く返さないといけない。仕事もせんとダルクにいてミーティングに出ていていいのかな」と思っていました。「仕事をせんで、ダルクに出かけるだけで、生活保護を受けて、ええな。呑気やね」と実際、そう言う人もいました。それでも僕はそこに居続けました。
ある日、僕が薬をやめ始めて、ようやくですが、薬が止まっていんたです。その時、昔の薬仲間が訪ねてきて「久しぶりやな」と。オーストラリアに行ってたんです、1年間。「久しぶりに帰ってきたから一発だけいこうや。1回だけしよう」。僕はこういう施設に通ってプログラムをしているし、やめたい。実際、止まっているし、したくない。「一発だけやから行こう」と押し切られて一発だけするんですね。彼は一発だけで次の日の朝、関東に行ってしまったんです。僕はその一発からまた連続使用が始まっていくんです。他の人に「お前は呑気やな。仕事をせんとええな」と言われたり、「一発だけ行こう」と言う人もいて、それに惑わされたり。しかし「いや、自分に必要なことをしないとあかんのや」と思うようになりました。それは多分「一緒に薬物をやめていこう」という仲間がいたから。いろんな人にいろんなことを言われましたが、それに引っ張られずに、淡々とミーティングに行って、仲間の話を聞いて、自分の話をすることを1年くらい続けました。他の人はどんどん出ていって、どんどん失敗するんですけど、また戻ってくる。僕は続けてミーティングに参加し続けられたんですね。それも初めてハンバーガーをニコニコ食うている仲間がいて、その人は僕とは違う、薬をやめて何年かたっている人でしたから、僕とは全然違う人間としか見えませんでしたが、ミーティングに行き続けているうちに、「自助グループの人と僕」という関係が、何かその中に、自分も入っているという感じがありました。すごい力になりました。
ミーティングには専門家はいません。どうしようもない薬物依存者ばかりが集まって、薬が止まっていくんですね。不思議なことなんです。今日も今ごろ、夜の7時から大阪の鶴橋ではミーティングをやっていると思います。何か僕もどうしようもない形で、そこに行って、言われたことは「あなたがここに来るまでにたくさんの仲間がたくさんの献金箱にお金を入れて、あなたが来るために活動した。今日からあなたは献金箱にお金を入れて、まだ苦しんでいる薬物依存者にメッセージを運ぶためにここにいるんだ」と言われて、その時は何かピンときませんでした。でも最初にできることは「ミーティング場でコーヒーカップ1個洗うことが、仲間を助けることになっていくのだ」と言われたり、「湯を沸かしているだけでいいんや」といわれてやっていたぐらいです。自助グループの活動に参加している時間だけは薬を使わないということで、実際に行って、コップを洗ったり、机と椅子を並びかえたりすることから、何かそういう活動に参加していきました。
薬をやめていくというのは、意思の強さ、根性と言われます。今でもたくさんの人がそう思っているけど、逆に近藤さんは「あんたは意思が強い。仕事もして結婚もして子どももいて、それも手放して、すべてのものを手放しても薬物をやめないあんたは意思が強い」と。そこまでしても薬を使う僕は「意思が強いのかな」と思うし、きちんと働かないで薬をやめられない僕は「意思が弱いな」と思う。でも薬をやめていくというのは意思の問題ではないんですね。「薬物をやめたい」という思いは必要ですが、僕がしたことは、ただミーティングに行くことだけですから、たくさんのミーティングに出て、たくさんの仲間の話を聞いて、聞いているうちに少しずつ自分の話もできるようになってくる。それを続けていると「何であの時、薬を使ったのか」、「何であの時、ウソをついてたのか」、「何でこうなったのか」、「こうできたんじゃないか」と考えるようになるんです。今でも「薬を使いたい」と思ったりしますし、タバコもやめているんです。でも「タバコを吸いたいな」と思う時があるんですね。以前は「我慢しないといかん」という感じでやってたんですけど、今は「また僕の病気が出てきたな」「薬物依存症という僕の持っている病気が出てきたな」という感じで、「薬を使いたくなってもいいんや」と思えるようになってきました。
「薬はだめだ。やめろ」と言われてきたけど、そうではなく「薬を使いたくもなる。使うてしもうても、かまへん」。それは回復するための一つのプロセスだし「それでもかまへん」という、そんな感じで気が楽になりましたね。「使ってはいけない」というのではなく、「依存症だから使ってしまうことも仕方がない」ということを認めることから、だんだんやめていくことが可能になりはじめたのです。同じようにしてきた仲間がたくさんいる。その中で実際に薬をやめていく仲間もいますから、仲間といながらやめていくことができるようになりました。
ところが、薬をやめたら、いろんな問題が解決したかと言うと逆で、薬をやめることでいろんな問題が出てくるんですね。これには本当にびっくりしました。「薬をやめたらいっぱしの社会人になってバリバリ働いてやっていけるのかな」と思ったのです。でも実際には、人が怖くなっていたのです。電車に乗るのも嫌だし、電車の席に座っていて、誰かか席でも立とうものなら「僕が臭いかな」とか「体臭が臭いかな」とあらゆることが気になって動けなくなるんです。ミーティングに出ていても、そんなことが起きて「ここで足を組み直してもいいのか」「タバコを吸うてもいいかな」とカチカチになって、本当に日常生活が大変になってしまったのです。止めた頃、最初はそんな問題がありました。でも仲間はそういう僕を排除するわけでもないし、世話するわけでもない。何か常に「そっと横にいる」という感じで、いてくれる。それが僕にとってはずいぶん助かった、いやすかったのです。文句も言われないし、世話をされるのも嫌な感じだったし、そんな感じでいてくれたので、自然といつのまにか、少しずつ溶けてきて、仲間と雑談ができたり、一緒に買い物に行ったり、コーヒーを飲みに行ったりできるようになりました。
中村先生にも他のところでお世話になっているんです。ドメスティック・バイオレンスの問題です。薬をやめて、改めて結婚をして、子どもができたんです。でも、薬を使っている時から、前の妻にも髪の毛を掴んで階段を引きずるとか、どつくとか、そういう暴力の問題があったのです。薬をやめてダルクに入寮してやっている時、そういう部分は治ったと思っていたのです。決して治ってたのではなく、対象がいないから出ないだけで、また一緒になるとやらかしたんですね。ある日、妻を蹴ってしまって、蹴ったところが突然、お岩さんのように膨れ上がって、僕もびっくりして、すぐ救急車を呼んで「えらいことをしてしまった」と後悔しました。妻は怒って、「警察に言う」と。でも警察に言っても罰金を払わないといけなくなって家計が苦しくなるだけやから事件にはしなかった。その時、僕もびっくりしました。そういう問題は自助グループとかダルクのプログラムをやっていて「もう大丈夫や」という感じを持っていたからです。でもそれが出た時に、びっくりして、いろいろ探して、中村先生の「ドメスティック・バイオレンスの非暴力グループワーク」に出たのです。そのグループワークでは、暴力の背景にある感情や気持ちと向き合うことを繰り返します。いろいろ自分の中で気がつくものがあった。それからは、どつくことだけは収まりました。まだ口は出てしまうんですけど。ずっと溜まってたんですね。いつも僕は「小さいことはかまへんわ、許しておこう」としてきたことがどんどん壺に溜まっていて、ある日、些細なことが一杯になると、壺が割れたような感じになってたんですしょうね。それに気がついて小出しで「ええ男が細かいことを言うのは男らしくない」と言われるかもしれないけど、小さいこと、細かいことを口に出して伝えて「伝え方も下手だけと、どつかへん方がまだいいかな」と思って、今はそのレベルで、妻と別れずに一緒にやっています。
そのグループワークもスッと入っていけました。自助グループで仲間とやっていて、自分のことを話すのもしんどくなかったし、ダルクで「ありのままに」というのがよく言われるんですが、「薬を使ってもいいんだ」「どんなに生き方がひどくなっていてもいいんだ」「ありのまま」が大切だと感じていましたから。そこからスタートするという感じで始まりましたから。今、スタッフとしてたくさんの仲間と一緒に施設で仕事をしているんですけど、腹立ちますね。そんな時に、当時、僕が入寮していた時、「スタッフは大変やったんやろな」と思って、「文句言うて、ごめんな」と言いながらスタッフをしているんですけど。この会場にも京都で一緒にやっている仲間が来てるんですが、僕はダルクでスタッフをやっていくと言っても一当事者です。ダルクに来て、プログラムをやりながら薬が止まったという経験がある当事者としては意味があるのです。その経験を伝えることができるからです。「僕はこうだったよ」、「そんな時はこうした」、「薬を使いたくなった時、どうしていましたか?」と聞かれると「仲間に電話したり、ミーティングに行ったり、そういうことをしていた」と。「風呂に行ったよ」「オナニーして寝たよ」と。薬を使いたいという時は何か欲求がありますから満足させるものがあれば少しは納まる。「ご飯を食べるとか、オナニーしておけ」とか言ったりしています。そんなことは病院でも教えてくれなかったし、そういうことも言わないし、実際の経験として薬物依存者がどうしてやめてきているかを実体験で伝えることができるのです。ただそれを伝えて、その上で、「やるかやらないかも、あなたの自由だ」といいます。そこまでダルクは自由なんですよ。月曜日から土曜日まで、10時から5時まで開いていますから、「ここに来るか来ないかは、あなたの自由です。来たければ来てください」といいます。実際によくなっている人は毎日来る人です。最初は週1回、月に何回か来て、再使用して「あ、使ったんか」、「あかんかったか」と話をしているうちに、いつのまにか毎日、きちっと来るようになってきて、実際に薬が止まっていくんです。「そんなことでええのか?」と思われるかもしれません。一方では、社会で覚醒剤を使って犯罪を犯しているのにです。いつもダルクについて説明する時、「私たちの問題は薬物をやめたい人の手助けをするだけです。社会の薬物の問題とか、そういうことをダルクが何とかしようということではない。やめたい薬物依存者の手助けをする、そのことだけである」と言っています。そういうところがダルクです。
ダルクのホームページが見られるようになっています。どんなところか紹介しておきましょうか。大阪ダルクのホームページのカウンターが4,600となっていますが、2002年7月にホームページを立ち上げてからの数です。どこかイベントとかニュースとか行って、このページに戻るとカウンターが上がるので、差し引いて考えてください。現在のダルクはマンションの1階の店舗物件です。ガラス張りになっています。3回引っ越しているんですが、初めてです、きちっと外部に分かるように「ダルク」と書いて看板をあげたのは。今までは名前を伏せてやっていました。最初の頃は新興宗教ではないかと思われました。ミーティングが終わると「神様」と手をつないでお祈りをするんですね。オウム真理教が事件を起こした時期ですから、非常に怪しまれていました。
ホームページには、「ダルクはどういうところであるか」「仲間の話」「ダルクにつながったKさん」(ニュースレターに載ったものの抜粋です)などがアップしてあります。ダルクにかかわってつながった方の話がたくさん出ていますので開いて読んでみてください。「グループホームの施設の世話人」。入寮施設の施設長の話が載っています。「大阪に来てスタッフになるまでの話」「スリップ」は再使用のことです。薬をまた使ってしまうことをスリップと言います。男性の施設はありますが、女性のためのものがないので「女性のための寝泊まりできる場所をつくろう」と活動しています。「1日のスケジュール」「ニュース」と続きます。ナオミキャンベルも私たちの同じプログラムを通して薬をやめていくことをばらされた記事が載っています。「イベント」で来週「薬物依存回復の姿」をやります。ダルクに通っていて今、僕はどんな状態なのか、どう思っているかという話が聞けると思います。更新は僕がやっています。
一旦、先生の方にお返しして引き出していただければと思います。

中村
加藤さんは、今、37歳ですよね。24歳くらいからのお話をしていただきました。薬物依存の当事者としてのライフヒストリーともなっています。依存症にならないとわからないことがあるわけです。たとえば、精神病院は薬物依存者にとって治療の場ではなく、逃げの場であったり、薬をもらう場であるとかです。本来、社会から見れば治療の場だけど、そうなっていない。それに比べてダルクは何もしない。積極的に「やめなさい」という場でもない。ひたすら通い続ける場でしかない。でも、確実に変化へのエネルギーを引き出していく場となっています。病院や警察は、「やめなさい」、「治療します」と言うんだけど。ダルクは不思議なところですね。

加藤
ダルクに行ってよかったのは「文句を言われない」のと「叱られなかった」ことですね。毎日ミーティングに行ってもいいし、帰りたい時に帰っていい。大体は「何時に来なさい」「行きなさい」「休んだらだめです」「3回休んだら、来なくていい」。そこでつながりか終わってしまう。ダルクは何をしでかしても何があっても、刑務所に行って戻ってこようが、薬を使おうが、「二度とダルクに来てはいけない」と言われた人はいないのです。一時、「来なくてよろしい。本当にやめたくなったら、来なさい」と言われることはありますけど。

中村
そういうところが大事なところだと思うんです。「あるがままの存在を引き受けてくれる場所がそこにある」という意味においてです。薬を使ってもしようがないといいながら、受け入れてくれる。「あるがままを受け入れる」って、そんな簡単にできることではないんですね。もし私の子どもが薬物使用したら「あるがままに受け入れられるか」。難しいですよね。そういうことを可能にしている場だと思う。それが精神病院との対比でよく出ていたと思います。ダルクという場所を通して、加藤さんが薬物使用から回復途上へと向かう歴史を聴きながら、薬物依存者の軌跡が理解できたかなと思います。ダルクのホームページを使いながら紹介していただいのですが、大阪の淀川沿いのいいところなんですよ。元レストランなんです。

加藤
厨房が広いのでプログラムもそれに合わせて、お昼は食べたい人が300円ずつ出して、スタッフも通所者も、たまに来られる関係者も、食べたければ出して、何人かが買い物に行って、何人かがご飯を炊いて調理して皆が食べることをお昼にプログラムとしてやっています。誰が買い物に行く係とか、誰が何をする係はないんですね。できない人は300円だけおいてソファにごろんと寝ころんでいていいし、買いに行く人は行く。いずれ回復して施設を出ていきますから、寝ころんでいる人がやらないといけない日がやってくるわけです。そんな感じで毎日、ご飯を食べている。

中村
場所は新大阪の駅前の近くです。絵で見てほしいのは「justfortoday」と大書してあるところです。これはダルクの基本の考え方ですね。

加藤
スローガンです。「今日だけ」ということですね。薬をやめていくことも「それをするのは今日だけ」「明日使ってもいいから、今日だけ使わないでおこう」「今日できないなら5分でいいから使わないようにしよう」「今は嫌なことも今日だけ、ええことも今日だけかな」「しんどい時、薬を使いたくなったりするけど、こういう日も今日だけだろう」「明日はどうなるかわからない」という意味で使っています。

中村
これも大事なことだと思って紹介したかったんです。いろんな意味がある。アメリカでも使われているスローガンです。薬物依存から回復していくグループで最も大事にされるのは「初めて今日1日薬物をやめることができた人」なんです。「よくやめた」と拍手されるのです。

加藤
そうなんです。最初の1日がとてもエネルギーを使うんです、薬をやめることに。僕は今年で7年になります。今月、仲間と祝う特別な日がもうすぐやってくるんです。考えてみてください。7年間薬を使わないでいることができた僕が「今日1日、薬を使わない」というのはそんなにエネルギーのいることじゃないんです。いろんなことができるし、楽しみもある。でもダルクに来て、「初めて今日1日に使わないで済む」ということは、僕もそうでしたが、すごいエネルギーなんですね。そういう人を大事にする。居心地がいい場所でないと、すべての人は続かないからです。

中村
この点は、グループが動いていくための大事なところですね。最初に来た人が半日でも1日でも「よくやめた」と皆に祝福されて喜ばれていくと「グループに受け入れられている、受容されている」という動きの第一歩になります。「justfortoday」はとても素敵な考え方だなと思っています。薬物依存だけじゃなく、いろんなところにつながる考え方だと思います。「よく来てくれた」「よく1日やめることができた」と皆で受容していく。加藤さんも7年前はそうだったんですね。7年間やめて「今日、1日やめる」ことはベテランですから可能なわけです。厨房を使って昼ご飯をつくる回復のプログラムとか、ダルクが持ってる不思議な場の力があるんですね。「回復したい、止めたい」という思いがあるからできる、でも使ってしまっても受け入る、その自由さがいいんですね。

加藤
ここは別にお金をもらえるところでもない。ここは「やめたい」という思いで来ている人たちを受け入れていくところです。僕は薬物の使用が高まっていくプロセスがありました。大麻の使用から咳止めへ。吸引だけでなく直接打つというプロセスの中で、薬物依存になっていくんです。すると、だんだんと世間の人間関係から離れていきます。そうすると、薬物仲間につながっていくことになるのです。薬物を使っていると、向こうから離れて行く人もいるんだけど、自分からも離れていくんですね。自分は薬を使っているから、使っていない友人や職場の人間に演じるのがしんどくなるんです。自分が生きている、本当に楽しいと思う薬物を使っていることを知られるのが煩わしいし、どんどん人間関係が少なくなっていくのです。

中村
薬仲間の言葉、たとえば、「さぶい」という独特の言葉を使われましたが、今度は薬物仲間からも離れていく。疎んじられていく。ヤバイと。

加藤
遊んでくれなくなりますよね。薬のやりとりの時はいるけど、手に入ったら「バイバイ」という感じでスッと引く。

中村
「薬物仲間」とはよく言ったものですよね。薬でつながっている。それで切れてしまう。そうすると最後、何もなくなってしまう感覚ですね。薬以外の人間関係がなくなる。頼みの綱のそれからも離れていく。一種の喪失感、これで「後がない」と。

加藤
ある部分、ひきこもりのような、安いアパートにずっといて薬を使っている。外にも出たくない。

中村
薬物依存からの回復は、そういう孤立から回復してくる過程だということ、そして人間につながるダルクの場であるということの意味がよくわかりました。そのプロセスが話によく表れていたなたと思います。それからとても大事な話しをされました。薬物からの回復はそんなに単純ではなくて、止まったと思ったら別の問題が出てきたということでした。「家庭内暴力」、「対人恐怖」的なこととかでした。
加藤
結構、僕は普通に生活してきたと思っていた。でもきちっと精神科で生い立ちを話して、カウンセリングを続けていくと、僕らのグループでは「棚卸し」という作業なんですが、過去を振り返る作業をした時、「よく生きてきたな」と言われました。僕の生きてきた人生は「子どもの頃、そんな大変なものやったのかな」と自分で気づいてなかったけど「大変な時やったな」と言われたのです。

中村
薬の使用で蓋をしていたものがあったんですね。それが吹き出てきた。薬をやめたからでてきた。直面化ですよね。自分で克服しないといけないという課題に直面するわけですね。回復が二重三重に必要になってくる。そこでたまたまDVの非暴力グループワークにつながったり、もともとダルクをやっていたから自助グループに行く力もあったのだと思います。回復のジグザクさも一直線にダルクにつながっていくわけではない。いばらの道のような。

加藤
行ったり戻ったり、あっち行ったりこっち行ったりしながらも、どこかで切れずに仲間とダルクとつながっていた。そんな感じですね。

中村
23、24歳の時、薬に手を出して精神病院に入院したということでしたね。

加藤
薬を使ったのは10代です。

中村
使い始めた頃は、ツッパリとか生きづらさがあったんですか?

加藤
薬仲間といることが楽でした。「それがあれば他のものは何もいらない」関係ですから。わずらわしくない関係なんです。僕は在日で、日本国籍を持っていません。そして父親がいないんです。そういういろんなことを全然、薬仲間は気にしない。「薬を持っているかいないか、それが楽しめるかどうか」だけですから。その時は、ある種、僕は何でも話せるという場でもあったから、そこに魅力があったかもしれないですね。僕の育った環境には、幼い頃から、タブー、しゃべってはいけないことがたくさんあったのです。母親に自分の父親のことを聞くのはタブーでした。母親が男性ものの下着を洋服屋で見ている時、「お父さんの?」と僕が聞いたんです。えらい怒られました。心にふたをするんです。「お父さんはいない」と。今でこそ、愛人の下着だとわかりますけど、当時はわからなくて聞いたんですね。その時に、えらい怒られて、「そのことに触れてはいけない」と。そして僕が在日だということはずっと伏せて育ててこられたのです。里子に出されていましたから、ずっと隠されていたのです。15歳の時、外国人登録証を持つことになるんですが、その時に、はっきりと自分が在日朝鮮人であることがわかるんです。里親も説明してくれなかったし、話をしてくれませんでした。その日が来て、登録証をつくりにいかないといけないということになって初めてわかったのです。そして、僕が育った家は精神障害の人がいたんですね。義理の兄さんと姉さんが精神障害で病院に入院していました。そのことも話題に出すのはタブーで、しゃべってはいけないことでした。またそういうことを理由にして、外でいじめられるわけですね、学校とかで。こうして、幼い頃から、隠すとか、黙っておくということが染みついていたんです。それが自分に負担になっていたのかなと思います。そういうことがあって、薬で誤魔化していたのかなという気はします。

中村
薬仲間との関係のほうが居心地がよかった。

加藤
よかったですね。楽しかったですね。僕の夢はハワイに移住して大麻を育ててのんびり暮らす、大麻を売って商売して金儲けして『ブロー』みたいな生活ですね。映画の前半部分の。

中村
薬仲間は薬のことだけに関心があって集まっている仲間だから居心地がいい。幼い頃の生きづらい世界とちょうど裏表の関係にありますね。ここまで含めて、24歳以前の加藤さんの話しを聴いて、ようやくですが、いったい何からの回復なのかというテーマにたどり着くのですね。薬物使用をやめることは一つの経過点であって、回復しなければならないものが何か別にあるんですよね。

加藤
僕らがやっているプログラムは「薬をやめたい」と思ってつながるんだけど、でも薬をやめることはスタートにしかすぎないのです。いま指摘されたように、薬をやめることからいろんなことが始まっていくんです。「薬を使わないで今日だけ生きる」というところに何かあるのかな。「回復」とか「ありのままの自分を受け入れる」ことが大事なのですが、世間では、回復とは、「社会復帰」「仕事をすること」「5年間使わなかったら回復ということで見よう」と思われがちです。でも僕にとっての回復と、別の仲間にとっての回復はちがうんです。画一的ではないのです。幼い頃にふたをした問題とも和解しなければならないし、シラフで薬を使わずに生きること自体を楽しめるようになることが回復なんです。薬物を使用しないことが平安で落ちついて楽しめているかということが課題となるんですね。世の中の基準で、社会復帰や回復の基準があるわけではないのです。「僕にとっていいか悪いか」ということなんです。アルコールは僕にとってだめですから、社会が「飲んでいい」と言っても飲めませんし、やめたいと思うし、今はタバコもやめました。僕の回復はそういうところにあるのかなと。

中村
出生が秘密にされていたこと、在日であることに思春期に気づくこと、義理の関係の方に障害のある方がいるとか、両親の秘密とか、そんなことをちゃんと話せなかったんですね、蓋をしていた。それを語りながら、薬物をやめながら、30近くになって、ようやく、隠さなくてもいいように、自分の人生を一つの物語としてストーリーづけていく作業をして、意味づけていく過程に、ダルクが不可欠なことがよくわかりました。二重、三重に回復しているなという感じがします。
皆さんからも聞いてみたいということがありましたら、ぜひどうぞ。

質問立命の3回生です。
アルコール依存のグループにお願いをして見学させてもらった経験があります。アルコール依存症のグループは今のところ入院が3か月くらいして、その間に院内例会、地元の例会に参加して、セルフヘルフグループにつながっていくと勉強しました。例会も2時間くらいが各地で行われていて、参加する人が1日の終わりに行くということですが、ダルクの場合、デイリープログラムがあって1日になっていますが、短い時間のプログラムもあるんでしょうか?

加藤
いまおっしゃったのは断酒会のグループだと思います。もう一つはアルコホーリクスアノニマス(匿名のアルコール依存症者の会)というのがあります。僕が通っていたのは「マック」というアルコール依存症の施設です。ダルクは1日中、朝10時~5時まで開いていますが、この中でも大事なのはミーティングなんです。薬物依存症のミーティングは、ナルコティクスアノニマスがあります。どちらも「12ステップ」を使っているところです。いろんなところでやっています。京都はで西陣教会とか京都市こころのセンターの場所をお借りして1日1時間から1時間半のミーティングを夜、しています。1日中のプログラムではなく、自助グループのNA、AAというのを利用できます。ダルクの人たちも基本的には3か月、プログラムをやって、その時点で次のステップに行ける人は次のステップに行く。アルバイトを探したり、スタッフの手伝いをしながらやっていくとか、自分の趣味や、したいことをして自分の時間を使って、夜、NAの自助グループに行く。長い人はダルクに1年くらいいます。僕は1年2か月入寮していましたから重症の方の薬物依存症です。早い人はどんどん出ていく。大体6か月から1年くらい通って出ていくのがうまくいくケースが多いですね。

質問
回復とは世間の基準ではなく、自分にとっての回復であると指摘されました。「なるほど」と思ったんですが、薬物を使用している人にとって法律で規制されているかどうかは意識として関係なんですか?

加藤
ダルクに通っているとか、プログラムをやる人にとっては法律で禁じられてるかどうかは大した問題ではないですね。

質問
たとえば違法じゃなかったら手を出さなかったという。「禁止されているから使うのがカッコよくて」という感じはない?

加藤
そういう感じではないですね。使いだした時も。初めて使うきっかけとなったのはそうかもわからないけど、使い続けていくことに関しては、違法か違法でないかではなく、気持ちが楽になれるかどうか、それだけです。

質問
最初に使い始めた時点では何となく?

加藤
小学校からタバコを吸い出したんですが、それは大人の真似とか、自分を強く見せるというものかあった。タバコを吸ってゲロを吐いていましたから。大麻を吸うきっかけも不良を誇示したり、ワルやったということを見せたいために使いだしたかもしれないけど、そこから先は違うところに移っていったと思いますね。

中村
「薬物を使った動機は何ですか」という調査はこれまでの通例の薬物依存の研究にはたくさんあります。でも大した動機は出てこないんですよ。「ツッパリ」とか「好奇心」とかです。調査の回答の選択肢がそうだからですが。なんでもそうですが、問題行動を起こす場合、そもそも動機を語る言葉は貧しいんです。いろいろ回復の作業をしていくと発見されてくるものがあくさんあります。回復の途上で見つけてくる言葉が大事かなと思うんです。回復の物語の中で後から振り返って、動機は意味づけられていくということなんですね。私は、動機は後からついてくる、といっています。

田村産業社会学部の4回生です。
アルコール依存症も薬物依存症も同じ病気の範疇に考えてしまうんですが、最初、アルコール依存症の方に対して偏見を持っておられた、受容できないものがあったということですが、現時点ではいかがですか。変わられたきっかけがあれば伺いたいのですが。

加藤
自分も酔っぱらうくせに「アルコール依存症は嫌いだ」と思うんですね。今から動機を振り返れば場、やはり母親の問題だと思います。すごい嫌です、アルコール臭いのは。当時は薬物依存のためのミーティングも少なかったからアルコールのミーティングにも参加していました。アルコール依存症の人の話も聞きながら少しずつ回復していく時、一つ気づいたのは、僕の母親はアル中で嫌だったんだけど、僕は薬物依存症と認めているし、回り回って「母親も仲間なんや。同じ病気を持った人間なんや」と、ある部分では思えるようになりました。母親が僕にしでかしたこと、僕も傷つきましたが、そのことも「アルコール依存症の病気が、そうさせたのだ」と思えるようになりました。恨んでいたこととが少し取れてきました。回復していっているアル中の人は結構、好きです。嫌いの裏返しか願望があるのかもしれませんが、自分が回復していくにつれて関係も変わってきました。それでも酔っぱらいは嫌やなと思いますね。薬中も同じですけどね。やめたい薬物依存者と、ただの薬物使用者は違うし、アル中とやめたいアルコール依存症の人はまた違うし、その部分は差がありますけど。
中村
「回復」ということの過程では、自分をいためつけたり、傷つけたりした家族、家族の秘密の中で傷ついて、薬物に行ったけど、やがて家族、母親を理解したり、許したり、和解したりしていくということですね。お母さんは健在なんですか。

加藤
健在です。でも今も絶縁状態なんです。関係はないんです。僕の方からは、年賀状を書いて住所知らせるくらいです。でもそれは悪い関係だと思ってないんですよ。親が倒れて病院に入院して「助けてくれ」と言えば多分、僕は行くでしょう。母親はまだ怒っています。僕がかけた迷惑に。僕が行くとまた思い出すし、怒りだすし。僕も腹が立つ。互いに腹が立つ。それでも、何かあって、必要であればまた会うと思います。ある種「いい関係である」と自分ではとらえています。

中村
距離感が保てていていいですよね。べたべたする必要もないしね。仲良くなるという基準だけが回復ではないのですね。回復は多層的なんですね。他にありませんか。薬物依存者には滅多に会えないですから(笑)。

加藤
最近会いやすくなっています(笑)。

中村
京都でもダルクができれば、もっと会いやすい。誰でもが生きづらさを抱えているので、そんな場所がたくさんあればいいですね。決して特別な存在ではない。

加藤
たまたま僕は薬物に出会って、そこにバッと行ったけど、もっと違うものに行っていたかもしれないですね。ひょっとしたら死んでたかもしれない、首吊って。薬物に出会わないと、生きづらさの現実がバッと来た時に。薬で誤魔化せて何とかやっていたところもあるかもしれない。

中村
薬に助けられたのですね。加藤さんはコーディネーターとしてダルクをきりもりしている方で、仲間を広げていく活動もされています。今日はダルク本体のプログラムの話でしたが、自分の娘や息子が薬物使用している親が相談に行ったり、応対したり、多面的な援助の場が必要です。刑務所の中に行ったりとかは?

加藤
刑務所に行っているのは近藤恒夫ともう一人の施設長ですが、大阪では拘置所に行っています。薬物の事件を起こして拘置所に収監されている人に面会に行って、「薬物依存症という病気がある。こういう病気である。回復する場としてダルクがある」という話と「自分がどうであったか」という話をしにいきます。ただし本人から手紙が来れば、です。押しかけて行くことはしません。「話を聞かせてくれ」ということであれば話をして「よければダルクに来てください」という感じで出向いています。

中村
そんな活動もされたり、こういうところに出てきて話をしていただいたりすることで「薬物は危険だ、やめましょう」とポスターばかりつくっているところとは違って、じわじわと伝えていく作業も大事かなと思います。薬物使用がいかに人体に影響を与えるかを科学的に伝えていくことも大事でしょうが、学校現場でそういうことを聞く子はもともと薬物使用をしない子です。熱心に聴くのは薬物を使用しなくてもいい子だと考えられます。でも薬物使用する子はそんな説教のような「薬物の正しい知識」についての話しは聞かない。そもそもずれていますよね。学校で薬物使用の話しをする際にも、正しい知識だけではなくて、当事者の話を聴くことは大事だと思います。伝え方によっては入っていくなと思います。生きづらさとか、生き方のバランスを薬物で保っていたところがあって、それがなくなると、何か別の楽しさを補填していく作業がないとバランスが保てない。ダルクは何かを補填しているのでしょうね。また、1、2年先に来ていただけるといいですね。その時は京都にダルクができているといいですね。最後に加藤さん何か伝えたいことがあればどうぞ。

加藤
薬物依存症の人は「回復する」と信じてほしいですね。「もうだめな人間だ」と思わないでほしい。「回復するんだ」と信じて近藤さんは場所をつくったんですね。「ここにいる人も回復するんだ」という思いでかかわれば回復すると思います。「薬物依存者はだめな奴なんだ」と思うと、よくなる薬物依存者もだめになっていくと思います。僕は7年やめていますが、病気ですから、いつ使ってしまうかもわかりません。明日は入寮者になる可能性がある。簡単に変わる。ですから自分自身、日々、ミーティングに行くことは「今日だけ続けよう」「明日はどうなるかわからない」、そういう形で僕は回復し続けていく。過去に薬を打ったのは打ったんですが、過去のことは多分、今日、話をしたらこんな話ですけど、数年前は支離滅裂でしたし、数年後はもう少し整理のついた過去になるかもわからないですね。どんどん変わっていく。今も過去は変わり続けるし、今も回復し続けているというところです。どうもありがとうございました。(大きな拍手)