木津川ダルク10周年記念フォーラム

『アディクトの苦しみを分かち合い、新たな未来を築く居場所』

日程:2023年7月1日(土)13:30~16:30 (13:00開場)

プログラム
新規事業のご紹介
卒業生や仲間たちによる回復の歩み

アディクトの苦しみと向き合う仲間のために安心で支援的な居場所です。
私たちは、理解と共感のもと、互いの経験を分かち合い、専門的なカウンセリングやリハビリテーションプログラムも提供し、回復の道を歩む仲間をサポートします。また、創造的な活動や自己表現の場も提供し、新たな趣味や興味を見つけることができます。
この居場所は、未来に向けて希望と再生を育む場であり、個々の成長と絆を促進します。
ここで出会った人々と共に、アディクションからの解放と新たな人生の一歩を踏み出しましょう。

私たちからのメッセージをお伝えします。

会場:中央交流会館(いずみホール)
   木津川市木津宮ノ内92番地
   JR木津駅より徒歩15分
参加費:無料、定員:先着180名

どなたでも、ご参加頂けます。

主催:一般社団法人 回復支援の会 https://recosuppo.org/
お問合せ:0774-26-4151

僕は主に咳止め、処方薬に問題があります

初めまして。依存性のユウヤです。
木津川ダルクに繋がって、約1年になります。
僕は主に咳止め、処方薬に問題があります。
その他にもネット依存、買い物依存がありますが、今回はなぜ薬物を使用するようになったのか、僕の過去の話しをしていきたいと思います。

僕は幼い頃から、現実で友達と呼べる人はいませんでした。クラスではずっとひとりぼっちでした。常にそこには寂しさの感情がありました。話したいけど自分から話しかける勇気もなく、頼るのはネットの顔も分からない人達でした。ネットこそが僕の青春でした。中学生になり、僕の現実逃避は加速していきました。たまたまネットで顔出し配信すると、以外にも見てくれる人がいて、僕の寂しさはなくなっていき現実世界よりネット世界が優先だと思いながら日々パソコンの前にいました。だけど、そう長くは続きませんでした。高校生の時からです。ほぼ毎日顔出し配信してたのですが、段々と人気がなくなっていきました。

僕はリスナーが離れていくのが嫌で、どうしたらいいのか考えた結果、過激なことをしてリスナーを増やそうと思い当時通ってた病院の処方薬を、見てくれているリスナーの前でオーバードウズをしました。かなり反響があり、僕は味をしめ、それからもっと人気になりたくて薬の量を増やしたり未成年飲酒したり他の配信者を貶したりしてました。その頃からSNSも同時にやるようになりました。病み垢、メンヘラ垢から咳止めを知り、SNSでも寂しさを紛らわす為と人気を獲る為に使うようになりました。中学、高校は友達と呼べる人はいないけどネットの世界には構ってくれる人がいて当時は幸せだったと思います。薬だって人気になる為の道具なので、すぐに辞めれるものだと思っていました。2~3年過激な配信を続けていると僕自身ネタが尽きてきますし、配信にも飽きてきます。どうやって引退するか考えた結果、自殺配信を選びました。元々高校卒業したら自殺する予定でした。引きこもりで友達のいない僕なんかが彼女を作ったり家庭を持ったり普通に仕事をしたり、ちゃんと生きていける自信もなく将来に絶望していました。大人になるのが怖くて自分には死の選択肢しかないと思っていたからです。最後に皆んなに構ってもらえて死ねるなんて最高だと思い、タイトルに自殺配信とつけていざ配信しました。どこから情報が漏れたのか分かりませんが、各掲示板の人達と興味本位の野次馬が集まりました。全く思ってたのと違いました。僕の頭の中では自殺を止める人達でコメントが溢れかえるもんだと思っていましたが、現実は「早く飛び降りろ」、「いつ死ぬの?」とか自殺を急かすコメントがほとんどでした。思っていた理想の答えと違う。僕は急に死ぬのが怖くなりました。もう目の前の現実を見たくない、でもここで死なないとこの先人生真っ暗になる。しばらくの間、葛藤に襲われながらも、なんとか配信機材を地面に叩きつけて、物理的に配信を終わらせました。その時はもう一生配信もしない、処方薬も止める、ネットも見ない、そう思ってたのですが1週間で約束を破りました。その頃の僕はやっぱりネットでしか生きられないと思ったからです。

今振り返れば、周りの大人達に相談していれば何かしら変わってたと思います。でも当時の僕は周りの大人、同級生は敵に見えてました。僕は悪くない、僕の人生がおかしくなったのは周りのせい。そう思いながら僕はまたパソコンの前に居座る生活を続けました。顔出し配信は失敗したから今度はSNSを中心に活動しようと思いました。病み垢の人達と打ち解けるのはとても簡単でした。ネガティブな事を呟けば必ず反響があり、寂しいと呟けば必ず返信が返ってくる。僕の新しい居場所ができたと思った瞬間です。その頃から僕には神様と呼べる人ができました。その神様は咳止めを使いながらも、歌を歌ったりギターを弾いたり、外見も良くてファッションセンスも良い。たくさんのファンから支持を得ていて、当時僕から見ても輝いて見えていました。この人のようになりたい。そう思い、必死に自分の信者を集めるために、自撮りを毎日投稿したり、咳止めタワーを投稿したり、カッコイイこと呟いたり、出来ることは何でもしました。

結果、自分の信者はかなりの数になりました。現実世界ではモテたことはないけど、ネットの中ではモテモテでした。かなり調子に乗ってたと思います。複数人彼女はいて当たり前、貢いでもらうのも当たり前、構ってくれないとすぐ別れるし飽きたら別れる。王様になった気分でした。ただ、病み垢で寄ってくる人達は僕と似ている人が多いです。みんな心が病んでます。少し揉めたり、彼女と別れたりすると殺害予告がダイレクトメッセージで届きます。知らない人からもたまに届きます。タイムラインも病んでるツイートかポエムか加工しすぎの自撮り。画像は咳止めか大量の処方薬、自傷行為の写真で埋まっていきます。たまに見るのがしんどくなり、それを見て死にたくなることが多くなっていきました。複数の自殺垢にダイレクトメッセージを送り、集団自殺を計画したこともあります。

この時点で、僕は現実世界を捨てていたのだと思います。皆んなが薬を使っている安心感。いつでも一緒に死んでくれる人がいる安心感。自分だけじゃない。

しばらくの間はネットの世界で生きていました。構って欲しくて、手の甲に根性焼きをして写真を撮ってツイートしようとしていたところを家族に見られて、精神科病棟に入れられたこともあります。

25歳までずっと現実世界を捨てた生活をしていました。一時期はこのままではダメだと思い、アルバイトをしたり親のコネで会社に勤めり、就労移行支援に通っていましたが、どれも長続きはしませんでした。人間関係に辛くなれば薬とSNSを使い現実逃避。死にたくなったら薬とSNSと自傷行為。

生きているけど、現実世界では生きていない。居場所がなくなれば死ねばいい。死んだら楽になる。助かる。そう考えるようになっていきました。

ある日突然、親に木津川ダルクに連れてこられました。何も分からないまま連れてこられたので、何をするところなのかも分からないし、何をすればいいのか分かりませんでした。その時僕は、親に捨てられたんだなと思いました。

しばらく生活しましたが、馴染むことはなく1人で行動することが多かったです。1月から3月までは仲間としょっちゅうトラブルを起こしました。ダルクで1度、自殺未遂も経験しました。ここでの生活はできないと思い飛び出る計画を立ててた時期もありました。そして何度も仲間から怒られました。僕が木津川ダルクで変わりたい、ここでやっていくと決心したのは4月頃でした。

何百回も仲間に迷惑かけたり、何十回も裏切ったり、何回もスリップしたのにそれでも僕を怒ってくれたり、心配してくれる仲間がいたり、助けてくれる仲間がいたりと怖くなるぐらい皆んな優しいです。そして、自分1人では生きていけないことに気づきました。たまに病気がでて引きこもりたくなる時があります。コミュニケーションが下手くそで会話のドッジボールになる時もあります。
全て自分1人で抱え込んで、1人で全て解決しようとすることもあります。そうした自分の欠点を気づかしてくれるのが今の仲間達です。

つい最近になって、木津川ダルクに繋がれて良かったと思うようになりました。
もし、繋がってなければ僕は今頃、現実世界にもネットの世界にもいなかったと思います。
少し長くなりましたが、僕の話しはこれで終わりにします。ここまで読んでくださりありがとうございました。

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生きながらスピリチュアルな死に向かっていた

皆さんこんにちは、依存症のユウと申します。
これから僕の話を少し読んでいただければと思います。初めましての方も僕のことをご存じの方もどうぞよろしくお願い致します。

僕がダルクに初めて繋がったのは23歳の時、東京ダルクに入所しました。それから2年ぐらい生活を送りましたが、クリーン1年を過ぎて就労に入ったのですが、なかなかうまくいかず、また薬物への欲求が高まっていきました。そんな時、施設長に相談をして、施設移動をすることを選びました。向かった先は京都ダルクです。ここでも2年ぐらいを過ごしました。京都ではアルバイトを1年ぐらいして、アルバイトの人間関係が嫌になりやめてしまいました。それから京都ダルクに通所で通いました。その頃、京都ダルクでは障害福祉サービス事業の生活訓練事業を開始しようとしていて、人員が足りなくてスタッフとして働かないかと声をかけていただきました。僕は少し考えさせてくださいと答えて、スポンサーとも相談をして、スタッフとして働かせていただくことを決めました。

それから、十数年働かせていただいていたのですが、部屋の引っ越しをして、部屋の近くの商店街を散策していた時に、パチンコ屋が目に留まりました。普段なら、パチンコも依存するからやってはいけないと自分に言い聞かせていたのですが、その時は何も考えず、「すこしだけなら」と、スロットをしました。今から思えばたまたま勝って、僕は薬物を最初に使ったとき以来の衝撃といいますか、こんないいものがあったのかと、時間も潰せてお金も増えるし最高だと思い、すぐにハマっていきました。それ以来パチンコ屋に通い続ける生活が始まりました。

一ヵ月も経たないうちに給料を使い切りました。嘘をついてお金を借たり、コントロールして毎月ギリギリの生活をしていました。その結果、消費者金融に借金をするようになり、どんどん病気は悪化していきました。借金のことを職場で正直になり金銭管理をしてもらい借金を返し終わったのですが、それからまた依存症の病気のままに動くようになっていきました。もう仕事も手につかなくなりはじめて、おととし職場を退職し、さらに依存症は進行していきました。もうどうしようもならない状態とパチンコ屋に通うことを続けるしかないと自分に言い聞かせてしばらく過ごしていたときに、ある方に連絡をしないといけないことを思い出して連絡を取ったのですが、僕の状況を知ったとあるカフェ方が、「今すぐに来なさい」と言ってくれて、僕はすぐにそのカフェに行きました。その時の状況などを話したところ、力になれることがあったら力になるよと言ってもらうことができました。生活保護の手続きや部屋の引っ越しなど、協力してくれました。その後、カフェの手伝いをしながら、僕自身相変わらず病気を出しつつ、それでもそんな僕と付き合ってくれていました。カフェでは色々な人と触れ合うことができるようになっていきました。それまでの僕は、周りに嘘をついていく間に、自分自身にも嘘をつくようになりその場を取りつくろうようになっていましたが、少しずつそんな自分と向き合うことができて、楽になりました。色々なしがらみやそんな自分から解放されていったように思います。

カフェに通う生活も1年ぐらい経った頃、僕の病気(依存症)はさらに進行していて、相変わらず、スロットが止められずに生活が再び破綻していきました。所持金は150円になり、もう嘘や言い訳、とりつくろうことや演じる事が嫌になりました。そうなって、木津川ダルクのスタッフの方に「助けてください」と連絡を取ることができました。その時、すぐに「受け入れるよ」と言ってもらうことができて、安心したのを覚えています。連絡をした次の日に、スタッフの方と合流して木津川ダルクに向かいました。前日ほとんど食事も取っていなくて、スタッフの方がパンをくれたのですが、本当に嬉しかったです。今でも覚えています。それから木津川ダルクでの生活が始まりました。

木津川ダルクでは朝、昼、施設内ミーティングをして夕方から自助グループに参加するのが基本的なプログラムで、その他、日々の施設内の掃除、昼食、夕食作りや月一回のヨガなどのプログラムがあります。一日三回のミーティングに参加するのは久しぶりで、最初にミーティングに参加して自分の話をすることが苦手だった頃を思い出しながら、ミーティングの雰囲気に安心して「またやり直そう」と思えました。初めて出会う仲間や知っている仲間がいて、やっと戻ってくることができたと思いました。日々の生活にもすぐに慣れていき、元々料理作りが好きだったので、仲間と作る昼食や夕食は楽しいし、美味しく頂けることがとても嬉しく思っています。ミーティングや掃除、洗濯など、日々のプログラムを通して、気持ちも落ち着いていきました。

本当にここ数十年を振り返ると、色々な事柄があって、自分自身、依存症からの回復を目指してきてはいたのですが、僕の病気はずっと進行していたかのように思います。もちろん途中で気づいてやり直して、また進行してやり直しての繰り返しでしたが、僕自身の成長がありませんでした。回復と成長という言葉をよく耳にしていましたが、ある程度回復したときに、それから先どのようにしたらいいのか分からなくなって、これだけ回復したのだからこれぐらいいいだろうという、病気の声みたいなものを聴くようになって、僕自身都合のいいように病気の自分と回復を演じる自分を使い分けるようになっていました。二人の自分を操るもう一人の自分が出来上がって、その自分が本来の自分なのだと言い聞かせて長い間日々を過ごしてきたのだと思いました。自助グループのプログラム「12ステップ」がありますが、スポンサーからステップを手渡していただいたのですが、僕はただ使い方だけを教わって、実際にステップを使って生活をするということができないままでした。だから成長とは程遠いところにいて、病気のままの自分で時が止まっていたかのように思います。

木津川ダルクでの生活を通して、色々な事、自分自身について、12ステップ、回復と成長、仲間の大切さなどを改めて気づかされています。それから、僕はいつの間にか色々な自分を演じている間に生きながらスピリチュアルな死に向かっていたように思います。本当は苦しくて惨めで虚しさだけが、僕の中にありました。それを埋めるために病気を使って埋めていました。当然、埋まらないからいつか埋まるまでと病気を続けることを選んでいました。病気では埋まらないことが解ったといいますか、本当は解っていたけど病気を続けたいと思っていたように思います。それが叶わないことだということがやっと解ったと思います。仲間との共同生活で、病気ではなく、仲間の温かさや思いやりが空いてしまった穴みたいなものを埋めてくれていることを実感しています。まだまだ、自分の欠点や欲求が出て古い生き方に戻りそうになりますが、仲間と共に回復と成長をしていけたらと日々思っています。

これまで、僕がどうしようもならなくなった時に、色々な方が声をかけてくれたり、関わって受け入れてくださったことを本当に感謝しています。生活が安定してくるとすぐに感謝を忘れてしまうのも正直な自分ですが、これからは、忘れないように日々プログラムに取り組みながら、新しい自分になれたらと思っています。最後になりますが、これまで僕の話を読んで下さりありがとうございました。

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