生きながらスピリチュアルな死に向かっていた

皆さんこんにちは、依存症のユウと申します。
これから僕の話を少し読んでいただければと思います。初めましての方も僕のことをご存じの方もどうぞよろしくお願い致します。

僕がダルクに初めて繋がったのは23歳の時、東京ダルクに入所しました。それから2年ぐらい生活を送りましたが、クリーン1年を過ぎて就労に入ったのですが、なかなかうまくいかず、また薬物への欲求が高まっていきました。そんな時、施設長に相談をして、施設移動をすることを選びました。向かった先は京都ダルクです。ここでも2年ぐらいを過ごしました。京都ではアルバイトを1年ぐらいして、アルバイトの人間関係が嫌になりやめてしまいました。それから京都ダルクに通所で通いました。その頃、京都ダルクでは障害福祉サービス事業の生活訓練事業を開始しようとしていて、人員が足りなくてスタッフとして働かないかと声をかけていただきました。僕は少し考えさせてくださいと答えて、スポンサーとも相談をして、スタッフとして働かせていただくことを決めました。

それから、十数年働かせていただいていたのですが、部屋の引っ越しをして、部屋の近くの商店街を散策していた時に、パチンコ屋が目に留まりました。普段なら、パチンコも依存するからやってはいけないと自分に言い聞かせていたのですが、その時は何も考えず、「すこしだけなら」と、スロットをしました。今から思えばたまたま勝って、僕は薬物を最初に使ったとき以来の衝撃といいますか、こんないいものがあったのかと、時間も潰せてお金も増えるし最高だと思い、すぐにハマっていきました。それ以来パチンコ屋に通い続ける生活が始まりました。

一ヵ月も経たないうちに給料を使い切りました。嘘をついてお金を借たり、コントロールして毎月ギリギリの生活をしていました。その結果、消費者金融に借金をするようになり、どんどん病気は悪化していきました。借金のことを職場で正直になり金銭管理をしてもらい借金を返し終わったのですが、それからまた依存症の病気のままに動くようになっていきました。もう仕事も手につかなくなりはじめて、おととし職場を退職し、さらに依存症は進行していきました。もうどうしようもならない状態とパチンコ屋に通うことを続けるしかないと自分に言い聞かせてしばらく過ごしていたときに、ある方に連絡をしないといけないことを思い出して連絡を取ったのですが、僕の状況を知ったとあるカフェ方が、「今すぐに来なさい」と言ってくれて、僕はすぐにそのカフェに行きました。その時の状況などを話したところ、力になれることがあったら力になるよと言ってもらうことができました。生活保護の手続きや部屋の引っ越しなど、協力してくれました。その後、カフェの手伝いをしながら、僕自身相変わらず病気を出しつつ、それでもそんな僕と付き合ってくれていました。カフェでは色々な人と触れ合うことができるようになっていきました。それまでの僕は、周りに嘘をついていく間に、自分自身にも嘘をつくようになりその場を取りつくろうようになっていましたが、少しずつそんな自分と向き合うことができて、楽になりました。色々なしがらみやそんな自分から解放されていったように思います。

カフェに通う生活も1年ぐらい経った頃、僕の病気(依存症)はさらに進行していて、相変わらず、スロットが止められずに生活が再び破綻していきました。所持金は150円になり、もう嘘や言い訳、とりつくろうことや演じる事が嫌になりました。そうなって、木津川ダルクのスタッフの方に「助けてください」と連絡を取ることができました。その時、すぐに「受け入れるよ」と言ってもらうことができて、安心したのを覚えています。連絡をした次の日に、スタッフの方と合流して木津川ダルクに向かいました。前日ほとんど食事も取っていなくて、スタッフの方がパンをくれたのですが、本当に嬉しかったです。今でも覚えています。それから木津川ダルクでの生活が始まりました。

木津川ダルクでは朝、昼、施設内ミーティングをして夕方から自助グループに参加するのが基本的なプログラムで、その他、日々の施設内の掃除、昼食、夕食作りや月一回のヨガなどのプログラムがあります。一日三回のミーティングに参加するのは久しぶりで、最初にミーティングに参加して自分の話をすることが苦手だった頃を思い出しながら、ミーティングの雰囲気に安心して「またやり直そう」と思えました。初めて出会う仲間や知っている仲間がいて、やっと戻ってくることができたと思いました。日々の生活にもすぐに慣れていき、元々料理作りが好きだったので、仲間と作る昼食や夕食は楽しいし、美味しく頂けることがとても嬉しく思っています。ミーティングや掃除、洗濯など、日々のプログラムを通して、気持ちも落ち着いていきました。

本当にここ数十年を振り返ると、色々な事柄があって、自分自身、依存症からの回復を目指してきてはいたのですが、僕の病気はずっと進行していたかのように思います。もちろん途中で気づいてやり直して、また進行してやり直しての繰り返しでしたが、僕自身の成長がありませんでした。回復と成長という言葉をよく耳にしていましたが、ある程度回復したときに、それから先どのようにしたらいいのか分からなくなって、これだけ回復したのだからこれぐらいいいだろうという、病気の声みたいなものを聴くようになって、僕自身都合のいいように病気の自分と回復を演じる自分を使い分けるようになっていました。二人の自分を操るもう一人の自分が出来上がって、その自分が本来の自分なのだと言い聞かせて長い間日々を過ごしてきたのだと思いました。自助グループのプログラム「12ステップ」がありますが、スポンサーからステップを手渡していただいたのですが、僕はただ使い方だけを教わって、実際にステップを使って生活をするということができないままでした。だから成長とは程遠いところにいて、病気のままの自分で時が止まっていたかのように思います。

木津川ダルクでの生活を通して、色々な事、自分自身について、12ステップ、回復と成長、仲間の大切さなどを改めて気づかされています。それから、僕はいつの間にか色々な自分を演じている間に生きながらスピリチュアルな死に向かっていたように思います。本当は苦しくて惨めで虚しさだけが、僕の中にありました。それを埋めるために病気を使って埋めていました。当然、埋まらないからいつか埋まるまでと病気を続けることを選んでいました。病気では埋まらないことが解ったといいますか、本当は解っていたけど病気を続けたいと思っていたように思います。それが叶わないことだということがやっと解ったと思います。仲間との共同生活で、病気ではなく、仲間の温かさや思いやりが空いてしまった穴みたいなものを埋めてくれていることを実感しています。まだまだ、自分の欠点や欲求が出て古い生き方に戻りそうになりますが、仲間と共に回復と成長をしていけたらと日々思っています。

これまで、僕がどうしようもならなくなった時に、色々な方が声をかけてくれたり、関わって受け入れてくださったことを本当に感謝しています。生活が安定してくるとすぐに感謝を忘れてしまうのも正直な自分ですが、これからは、忘れないように日々プログラムに取り組みながら、新しい自分になれたらと思っています。最後になりますが、これまで僕の話を読んで下さりありがとうございました。

木津川ダルクでの回復

はじめまして、エチと申します。
僕は約9年ほど前に木津川ダルクに入寮しお世話になっていた薬物依存症当事者メンバーです。

僕は薬物事犯により今までに二度逮捕されております。一度目の逮捕で執行猶予の判決をもらった時、担当だった弁護士さんより「ダルクというリハビリ施設があり、そういったところを利用するという方法もある」と説明を受けたことがあります。当時の自分には興味のないことですごく嫌な感じを出しながら「ああ、そうなんですね。自分はいいです」と返答したことを覚えています。この時、僕は薬をやめる必要はなく、むしろ自分の人生には覚せい剤とエリミンが必要だと思っていました。次に捕まれば刑務所だから逮捕だけはされないようにうまく薬を使い社会復帰し、人生を立て直そうと考えていました。なので弁護士さんよりダルクという施設があると話をされた時にはすごく嫌な思いをしたのだと思います。

執行猶予を貰った一度目の逮捕から一年後に二度目の逮捕をされました。執行猶予を貰った一度目の逮捕から一年間、バイトをして介護の学校に通って資格を取得し、就職活動をして人生なんとかしようと自分なりに必死にやってきました。毎日のように覚醒剤とエリミンを使いながらですが…。この時、自分ではそう思いたくなかったのですが、薬の効果に頼りきりで薬なしでは社会の中で対応していくことが出来なくなっていました。なんとか介護施設への就職が決まったのですがその時の面接も薬でキマっていないと受かる気もしないし、行動出来ないような自分でした。必死だったはずの一年間も、実際には毎日の薬の段取り。消費者金融、闇金、ヤクザからの借金利息、家族、親戚、友人にも嘘をつき傷つけ食い物にして金を用意するという一年間となり、本当に首の回らない状態でした。大切な人を傷つけて作ったお金でヤクザと売人にだけなんとか筋を通しているような状態でした。自分の人生は思う方向には行かず悪化していく一方でした。これで最後と信じてくれる家族を何度も騙し、お金を用意してもらい毎日の薬を段取り。なんとかたどり着いた介護施設の就職先も一か月もしない内に目先の金をパチンコや闇スロ等で作ろうと休みがちになり退職。身近な人、家族を大切にしたいのに傷つけ、自分の人生も何ひとつ良い方向に行っていない事に『なんで自分の思いと逆の結果ばかりになるのか』と自分自身への怒りでいっぱいでした。こんな状態の中『仕事の為だ』といつものように薬を段取りして、車で帰っていた時に職務質問をされ二度目の逮捕となりました。そして刑務所に何年か行かなければならない段階まで来て、薬を使って自分の人生を良い方向へ立て直そうと思っていた事が間違いだったと気付きました。刑務所に行くという現実を目の当たりにして、普通で良いので家族を裏切らないまともな人生を歩みたいと思いました。そうなる為には薬を止めないといけない、薬が自分の人生のジャマをしていたんだ自分は薬物依存症なんだとこの時初めて思いました。しかし、この時は何年か分からないが早く刑務所に行き、早く帰ってきて今度は薬無しでやり直すのだという思いでした。

拘置所で裁判を待っている時、母が色々と調べてくれて司法サポートや回復支援をしているNPO法人アパリの人と面会を勧められました。一日でも早く刑務所から帰ってきてやり直そうと考えていたので殆ど聞く耳を持っていなかった状態でしたが一応会ってみる事にしました。最初は「はい、はい」と淡々と受け流すように話を聞いていました。しかし最後の方で面会をして下さった方に「薬を使っていたからこそ上手くいった、上手くやれたって事もあったと思うのです」という言葉を言われました。『なぜ薬を使った事もない人にそんな事が分かるのだろう』と思い、もしかしたらこの人の勧めるように回復支援を受けながら司法サポートを受け裁判を進めていく流れが、確実に薬を止めていく事に繋がるのではないかと少し信じる事が出来ました。

そして、保釈中に条件反射制御法という薬物治療を行っている結のぞみ病院に入院する事になりました。条件反射制御法に疑似摂取というものがあります。これは氷砂糖や食塩を砕いたものを本物の覚醒剤に見立ててイメージをし、実際に吸引します。それぞれが実際に使っていた方法で摂取します。行動は薬を使っている時と一緒ですが、実際に摂取しているのは氷砂糖や塩なので何も効果は感じられません。この行動を繰り返し行う事で、今まで使っていた時の行動をしても何も変わらないし効果は得られないという事を体に馴染ませて薬物に対しての渇望を弱める治療法です。僕の場合は炙りだったのでパケに入れた氷砂糖をガラスパイプに入れて実際に炙って吸引する方法でした。最初はガラスパイプを見るだけで手が震え、疑似摂取をすると頭がスカッとし一瞬キマッたような感覚にもなりました。思った以上に自分自身の身体が反応する事に自分が薬物依存である事を認めざるを得ない感覚になったのを覚えています。入院中この疑似体験を繰り返していく事で、ガラスパイプを見たり氷砂糖を実際に炙り煙を吸い摂取する行動をしても薬への渇望が沸くことは少なくなっていったように感じます。

僕の場合は、モノを見た時やテレビ番組や覚醒剤でタレントが逮捕されたニュースを見た時反射的にやりたくなるような衝動的な渇望が弱くなったように思います。この時、僕のことを受け持ってくれていた弁護士さんのすすめもあり認知行動療法カウンセリングを定期的に受け、自分のどういったところが原因で薬物使用にまで至ったという事を見つめる時間も作りました。またNAという自助グループにも繋がりミーティングに参加するようになりました。裁判では保釈中にこういった薬物依存の治療を受け、カウンセリングやNAミーティングへの参加等の取り組みを上申書として提出。病院主治医、カウンセラー、家族が情報証人として立ってくれました。これらを認めてもらう事でなんとなんと執行猶予中の再犯ではまずあり得ない再度の執行猶予判決を一審で貰う事が出来たのです。このことは結果的には検察官控訴を受け、高裁では判決はひっくり返され実刑となるのですがこの控訴されてからの裁判期間を保釈でどうするかという事で当時病院にメッセージに来てくれていた当時の木津川ダルクの施設長に相談したところ「うちでやってみようか」と言って下さり、木津川ダルクでの生活が始まりました。

ダルクでの生活は一日三回のミーティング(内一回は夜のNAミーティング)と自炊・掃除、たまに入寮している仲間とどこかへ出掛けるという感じです。ダルクでの生活は薬を使わずに過ごす久しぶりの日常でした。仲間との共同生活やミーティングで、どうして自分には薬物が必要だったのか考えたり、使わなくても楽しむ事が出来る仲間と笑いあったり充実感を感じました。ダルクやNAには薬を使わずに普通に社会で過ごせている仲間・同じように保釈を受けプログラムを受けて刑務所に行き、帰ってきてからも薬を使わずに過ごせている仲間・もちろん再使用してしまう仲間もいました。同じ問題を抱えた仲間や乗り越えた仲間との出会いがありました。そして何より【今日だけ】という生き方を教わった事は大きかったです。

急な逮捕でヤクザに不義理をした事や、裁判の結果で自分は刑務所に行くのか行かないのか、出所してからの事、裏切り続けてきた家族にまだ心配をかけているという事、色々な心配と不安はありました。しかし、結局自分に今出来る事をやるしかないという事と、過去や先の事に捉われずに自分の回復の為に今日だけを生きるというのは無駄ではない事、今出来る事と少し先でないと出来ない事もあるという事も教えてもらいました。とりあえずは今日という日を薬を使わずに、今自分に出来る精一杯の事を誠実にやる、この事を続けていけば良い。何か神様のような偉大な力が良い方向へと導いてくれると信じられました。
楽しく過ごせる事も自分が抱えている全ての事もまず第一歩であると思い、毎日のミーティングとプログラムに取り組みました。

ダルク入寮中に印象的だったのは施設長の「僕達は自己の容認が出来ていなかったから薬を使い続け依存してしまう事になったんでしょ」という言葉と、職員さんと話している時の何気ない一言「人の中でしか回復はないからなぁ」という言葉でした。僕の中には「自分をどう人に見せたい、どう思われたい、自分はこんなものではない」といった自分が強くあり、自分の思い描いた自分じゃない自分を人に見せてしまった時にそこから湧き上がってくる感情を感じたくなかったですし感じるのが苦手でもうそのような感情は薬でスキップすることが習慣となっていました。薬を使う前からですが、「本当の自分を受け入れられずありのままの自分を知る事を恥じ、みっともなさを感じ、それを人に晒す事を恐れる」といったことが僕の中には本質的にあるんだと思います。どうにか人からの自分の見え方を変えようと本当の自分を隠すこと取り繕うこと違う自分を演じることに必死になっている自分でした。本当の自分を隠し取り繕うのにピッタリ補うことができたものがエリミンと覚醒剤でした。薬が効いていない時の自分の姿を鏡で見るのは嫌だったし、それは本当の自分ではないとさえ思っていました。この世の中に人間関係が無く、自分一人だけの世界だったらここまで覚醒剤とエリミンに依存していなかったかもしれません。それだけ僕は人の中で本当の自分を晒すのが苦手だということ、また薬を止め回復していくということは人の中で本当の自分の姿を見せていくことでもあるんだと施設長と職員さんに貰った言葉により気付かせてもらえました。裁判を進めながらの木津川ダルクでの生活は約一年となりました。裁判の結果は再度の執行猶予がひっくり返され2年8か月の実刑となりました。しかし、なんとか再度の執行猶予を守ろうと著名や嘆願書を書いてくれたNAの仲間や回復支援関係者、またダルク入寮中に薬物事犯で裁判中である事などを知りながらもボランティアで受け入れをして下さった介護施設の方々。いつも傍で僕も見ていたし見続けてくれていた木津川ダルクの仲間達。本当に沢山の良い出会いがありました。薬を止め久しぶりにシラフで生き直しを始めたばかりのありのままの自分を受け入れてくれる人がいるんだと感じさせてもらえたこと愛してくれた人がいてくれた経験というのは刑務所の中でも出所後の今の生活でもどこか大きな力を貰えています。

2回目の逮捕から保釈をすることになり病院での治療を受け1審で再度の執行猶予の判決をもらえ検察官控訴されて裁判期間を木津川ダルクで過ごせたことNAに繋がれたこと、そして判決がひっくり返り刑務所に行くことになったことは今になって思うと自分には必要なことだったんだと思っています。またこういった流れは自分の意志では選択できていなかったと思います。たまたま面会に来てくれた人の一言で保釈をして病院に行ってみようと思えた事、再度の執行猶予の判決があったからダルクに行ってみようと思えた事、そして実刑となり刑務所に行ったことすべては僕の回復にとってはこの方がいいよと神様が導いてくれたように感じています。
刑務所を出所してから社会での生活をして、現在はなんとか5年になります。出所後はダルクにも繋がりながらNAミーティングに参加し介護施設で仕事をしています。仕事をする時もいつも薬を使っていた僕にとっては薬を使わずに仕事をし、いろんな人間関係の中社会の人の中で生きていくことは想像以上に大変なことでした。最初は本当に職場の人が恐かったですしパニックと妄想が激しく出て何もできない自分を本当にみっともなく感じその場から逃げ出したくなるような日々でした。毎日のように「すいませんけどやめさしてもらいます」と言おう、「いや生き直していく人生や、もう一日だけがんばってみよう」というような日々でした。この時も『今日だけ』の生き方を思い出しながら今日一日、薬を使っていない自分で精一杯やろう、きっとこの一日はこの先の自分のためになると信じて過ごしていました。この時も木津川ダルクやNAの仲間とのつながりを感じ、もしだめでも自分にはやり直せる場所があると思えることで少しだけ軽い気持ちで次の日になんとか挑めていた気がします。そんな毎日をなんとか積み重ね5年同じ職場で働くことができています。5年経った今この原稿を書いている次の日も仕事なのですが、明日、また薬を使っていない等身大の自分で一日を過ごし見せたくない自分を人に晒すことになるかもしれません。そこから自分はどういう感情になるのか人間関係に不安を抱くことになるのかとか不安や恐れがいっぱいで薬を使い補い過ごしていた場面とシラフで向き合っていく毎日です。出所後よりはかなりましですが今でも次の日に身構える感覚や不安などは変わらずあります。そんな同じような毎日でもいいことのある日ももちろんあり、振り返ってみると結構人生いい方向に向かえていると感じていることも事実です。出所後5年間NAに足を運び仲間とのつながりのなか『今日だけ』を精一杯生きていくこの方法は僕の中で信じられるものになっています。自分とつながってくれている人を今度は大切にしていける自分でいたいです。無理せず楽しく自分らしく、仲間と共に、今日だけ、これからもいろんな方々につないでもらった回復の人生を大切に生きていきます。

今回、原稿を書かせていただく機会を与えていただいたことに感謝しています。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

薬物依存者のこうじです。

私は3人兄弟の末っ子になり、長男である兄と、双子の兄がおり、私はその双子の弟にあたります。
私がNAに繋がったのは、2021年4月〇日に刑務所から出所して、現在いる木津川DARC の仲間に加古川刑務所に迎えにきてもらい、入寮した時です。刑期は8か月と短い受刑生活でしたが、私にとっては初めての経験であり、非常に辛い生活でした。

私が入寮するきっかけとなったことを振り返ると、約30年間続けていた美容師を辞め塗装の仕事をすることになり、当時は離婚をした直後で、子供と離れた生活の寂しさ、慣れない仕事、上司との関係で、ストレスを抱え、精神・体力ともに疲れ果てていました。そのストレスを解消するために、仕事で使っているトルエン(シンナー)を吸うようになっていきました。
トルエンを使うようになった半年間、人にも相談などせずに、一人で悩みを抱え込み、どんどん病気が重症化していきました。年を取ってからの再使用で、人生も諦めかけていた、そんな考えでは、到底、シンナーが止まることもなく、泥沼にはまっていくスピードはあっという間でした。

「シンナーの使用で実刑?」とびっくりされる方々もおられるとは思いますが、約6か月の間に5回の逮捕となり、執行猶予中の身分でありながら、同様の過ちを繰り返してしまい、服役をすることとなりました。留置場・拘置所にいてる間に、親と長男である兄がわざわざ面会に来てくれたり、手紙のやり取りもしておりました。その間に、出所後にはDARCに入寮する話を進めていましたが、自分の気持ちは、決心することができなくて、もう一度社会で生活する話を持ち掛けてみました。ところが、もちろん親は反論しました。後日、双子の兄が面会に来てくれて、「DARCに入寮したほうが良い。俺を信じて考え直せ。」と言われました。その時それまで迷っていた気持ちは、一気に決心へと変わっていきました。

実はその双子の兄も薬物依存からの回復者であり、過去にDARCに入寮して生活していた経験があるのです。その頃から、月に4回の手紙のやり取りで、励まされ、勇気を与えてくれて、悩みや不安は、少し和らいでいました。まだ判決は決まっていない状況ではありましたが、刑務所に行く覚悟を決めることができました。刑務所に移送されてからも、双子の兄との手紙のやり取りは続けていました。時には、説教じみた内容の手紙もありましたが、精神を鍛えられ、すべてを前向きに捉えて、受刑生活の辛さを乗り越えながら生活を送っていました。8か月の刑期を終え、出所する日が来たのですが、普通なら社会に出れる喜びがあるかと思いますが、当時の私は、「本当に出所して良いのだろうか?」「刑期が短か過ぎたのではないだろうか?」と感じていました。
思ったより精神面が、強くなっていませんでしたし、本当に薬物を止めていけるのか、不安に感じていたからです。出所当日の天候は雨でした。。。傘をさして刑務所の門を出ました。

その一歩目は、今でも忘れることはなく、強く踏みしめ、新しい人生の第一歩として、歩みだしましたのを今でも覚えています。駐車場に目をやると、DARCの仲間が迎えに来ていて、足早に歩み寄り、挨拶をした時にふと思いました。「俺はこれで助かった。」その時の事は、雨が降るたびに今でも思い出します。
決して悪い意味ではなく、忘れてはいけない当時の感謝とやり直す気持ちでいたということを…
施設に到着するし、施設長と他の仲間が、温かく迎え入れてくれた時には、ホッとしたのを今でも覚えています。

以前、長い間、美容師として勤めてきた後に塗装業という仕事に変わり、男性ばかりの職場に対してのトラウマがあったので、「仲間と上手いことやっていけるだろうか?」と思っており、施設で生活していく上での1番の悩みとなっていました。今では、すっかり施設に馴染んで生活しており、他の仲間とも良好な人間関係を築いていけています。

施設のプログラムとして、朝・昼・夜の3ミーティングで、夜はNAミーティングでしたが、当時はコロナ感染防止対策の為や、緊急事態宣言発令中というさなかで、NA会場は休止しており、オンラインによるZOOMミーティングで参加することになっていました。はじめは、出所したばかりで、身体的にも疲れており、会場に足を運ぶより、ZOOMミーティングの方が良いように感じておりました。数週間も経過すると、施設で缶詰状態にも飽きが来て、退屈に感じるようになって行き、早くNA会場に行き、ほかの仲間との分かち合いがしたくなってきました。少し木津川DARCでの生活にも慣れてきて、ミーティングでの仲間の話にも耳を傾け、共感できるようになって行きましたが、ZOOMミーティングでの発言は、まだまだ自分から進んで話する状態にはなっておらず、どんな内容の話をしたら良いのか分からず、恥じらいを感じ、聞くだけの分かち合いになっていました。

初めてNA会場に行ったとき、半月ほど遅れて、ONE DAYのキータッグをもらいました。手にした瞬間、お守りのように感じました。1・2・3・6・9か月、1年とクリーンタイム(断薬期間)を継続していると色々なカラーのキータッグがもらえるのですが、ただ単にクリーンで過ごすのではなく、次なる目標が目の前にあることを、実感することができて良い事だと思いました。

私は本文を書いている翌月、4月〇日で1年のクリーンタイムを迎えることになります。長いようで、短かったようにも思えています。それだけ、仲間との関わりにぎこちなさや、トラブルが少なかったし、悩みや不安な思いを分かち合えたお陰だと思っています。

しかし、1年を迎える前の、この1か月が長く感じてしまうようにも思っています。先ゆく仲間の話で、1年のクリーンタイムを迎える直前に再使用してしまうことがあることを、よく耳にしたりすることがあります。油断することと、慣れてしまうことが、この病気の怖さだとも思っています。
自分の今までの人生でも、「後もう少しで目標に達する」とか、「手に入れることができる」とかと言うところで、足元をすくわれる事が何度かありました。そうならないために、無事に1年のクリーンタイムを迎えるためにも、”平安の祈り”を毎日祈り続けることを忘れないようにして行きたいと思っています。
冒頭で、私の双子の兄も薬物依存者でDARCにて回復をしてきたと書きましたように、同じ回復の道を歩んでおります。兄の方が、先ゆく仲間として約20年前からDARCに入寮し、NAに繋がっており、現在は施設を退寮して次なる生活へと進んでいます。

私も同じころには、薬物に依存していましたが、運よくパートナーを見つけ、結婚生活をしていたことにより、横道にそれずに暮らすことが出来ていました。
しかし、私の人生は、波乱万丈で、結婚・離婚と3度繰り返し、なかなか幸せな人生というものではありませんでした。
唯一、仕事は美容師を続けられていたことで薬物から離れられることが出来ておりました。今回は離婚と失職が同時に起こってしまい、薬物依存という病気の芽が出てしまいました。DARCやNAに繋がり、自分の無力さを自覚することが出来ましたし、自分には薬物以外にもアルコール・ギャンブル依存等の傾向があることを知ることが出来ました。

新しい生き方をまだまだ、模索中でありますし、回復の道を歩み始めたばかりで、不安はつきまとうと思います。決して1人では回復できない病気だと、知ることも出来ました。
先々、退寮して社会復帰をしたとしても、NAには繋がり続けて行かなければ回復し続けることが出来ないと思っています。一生涯、背負っていかないといけない病気という事も自覚し、残りの人生を悔いのないように生きていきたいと思っています。
最後まで、読んでいただきありがとうございました。共に平安でありますように祈っております。