「ひとりではない」

はじめまして。薬物依存症のてつです。昨年の12月13日に刑務所から仮釈放で出所しました。現在は京都の木津川ダルクで入寮生活を送っております。私は現在40歳です。覚醒剤を初めて使ったのが24歳なので16年間の使用歴になります。その間に三度の逮捕、二度の刑務所生活を経験しました。

私が覚醒剤に手を出すきっかけになったのは、あるパチンコ店からの帰りに売人から声を掛けられた事でした。16年前の当時、私の実家から程近くの隣町では、路上に売人が立ち通行人に声をかけて薬を売っているというような場所でした。その様な場所でしたが、「自分には関係ないだろう」と特に警戒もすることなく、密売地域のど真ん中にあるパチンコ店に通っていました。ある日そのパチンコ店でイベントがあったので、いつものように出掛けて行き、少しの勝ちを得ることができました。

その帰り道です。コンビニに立ち寄ろうと思い歩き出したところを、若い男に声を掛けられたのです。手招きされ近づくと「兄ちゃん、エスあるで」と切り出してきました。パチンコで少しお金を得ていた私にとって特に高いと感じる値段ではありませんでしたし、使用方法もアルミホイルに乗せてライターで炙り煙を吸うだけ、そして何より私は好奇心に打ち負け購入してみる事にしたのです。

初めての使用の際は、本当に薬が効いているのかどうかよく分からない状態。少し体が軽くなたかなぁ?という感覚と、眠ることが出来なかったことだけを覚えています。

その次に使ったのが、仕事の夜勤明けでした。本当に疲れ果てて家に帰ったのですが、なんとなしに覚醒剤を使うと、疲れが取れた感じがし、眠ることも無くそのままパチンコを打つことができるようになりました。また、パチンコやスロットを打つのが、いつもより格段に面白く感じられるようになりました。体のレスポンスが上がった感じで、集中力も上がり、スロットを打つ際には、リールの絵柄が止まって見えるようにさえ感じたものです。夜勤明けで疲れ切っていても、疲れを感じず、一日中パチンコが楽しめる。正直、こんなに素晴らしい、楽しいものはないと感じました。今まで薬を使わない素面の状態で楽しめていたパチンコが、だんだん薬のない状態だと楽しめないというような状態になります。それからは休日の前の夜勤後には薬とパチンコをセットで楽しむことが増えました。

そして、真昼間から仕事帰りのスーツ姿で密売地域をうろうろしていた私は、警察官にすぐに目を付けられ、職務質問で一回目の逮捕をされることになるのです。使用後約三カ月後のことです。

判決は1年6カ月、執行猶予3年。取り調べ後すぐに保釈で出たので拘置所に通うこともなく、職場も10日程の病欠扱いとなり、逮捕以前と表面上は何も変わらない生活に戻ることが出来たのです。今振り返ると、「重大なことをしでかした」という感覚は全く持っていませんでした。家族に対しても、表面上では申し訳なさそうに反省している振りはしていましたが、本当に表面上だけのことだったんだなと今では思います。その時点では私自身が薬物依存症に陥っているなどとは夢にも思っていませんでした。

しかし、ともかく家族の監視の目も厳しくなり、執行猶予中だったこともあり、それから五年間ほどは薬に手を出すこともなく、またパチンコ店からも遠のき、仕事に集中して過ごす日々が送れていたように思います。再び薬に手を出すようになったのは、またしてもパチンコ。転職した職場の先輩にスロット好きの方が多く、夜勤明けに連れ立ってパチンコ店に通うようになります。そうなると、過去の薬を使っていた感覚が蘇り、再使用に至るまで時間はかかりませんでした。誘われた時にしか行かなかったパチンコ店も自主的に足を向けるようになり、またもスーツ姿で密売地域をウロウロ。そして、当然の如く三カ月程で二度目の逮捕をされ、今度は刑務所に入ることになったのです。

二回目の逮捕では本当にたくさんの大事なものを失いました。家族・知人からの信頼、今まで培ってきた仕事の実績、仕事、お金。そんな落ち込んだ心境の中、初めての受刑生活が始まりました。

人から怒鳴られたことなどなかった私にとって、刑務所での生活はとてもショックが大きく、後悔の念と不自由な生活は「もう二度と刑務所に戻りたくない」と私に十分思わせるものでした。そこで初めて「もう薬は使わないでおこう」と思ったのです。

しかし、その時点では未だ自分が依存症であることは認めていません。自分の力で止められる自信すら持っていました。自分が薬を使ってしまうのは、環境が悪いからだ。密売地域から離れれば大丈
夫だ。という思いから出所後は地元から離れた場所に職を得ます。幸い新天地では、仕事も評価され、役職にもつけ、結婚を前提に付き合う女性もでき、本当に幸せな五年間を送ることができました。

すっかり刑務所で経験した後悔の念や不自由な生活、そして自分の問題を忘れ、普通の社会人になれたと勘違いした私は、再び自分から依存症の罠に足を突っ込みます。結婚の為により良い給料の職場を求め、以前「自分にとっては危険な場所」として離れた地元に戻ることにしたのです。それでもしばらくは真面目に仕事をし、彼女とも良好な関係を築けていました。しかし、良い給料をもらうには当然高い能力・スキルが必要です。出所後全てがとんとん拍子にうまく進んでいた私は自分を過信していましたが、人生には必ず躓きがあるものです。格段にレベルが上がった仕事内容に能力が追い付かず、足りない能力を補う為には時間でカバーするしかありません。
休みも取らず、睡眠時間を削り仕事に取り組むようになり、その結果大事だった彼女を振り返ることもなく仕事漬けの生活をするようになりました。そのような生活を送ると当然彼女とも別れる事になってしまい、仕事も苦しく、全てが上手くいかなくなりました。そこで私は壊れました。

職場を変え再出発を図ろうとしましたが、失った彼女、傷ついた自尊心、仕事へのモチベーションなどが私を苛み、当時流行っていた合法ドラックへと逃げてしまったのです。そして合法ドラッグが違法になると、再び覚醒剤を使用が始まり約一年程で再度刑務所に行くこととなります。家族からも見捨てられると思っていましたし、私自身ももうこれ以上家族に迷惑を掛けたくないという想いも強く「もうこれ以上関わらなくていい。縁を切ってください」と手紙を書きました。出所後は薬の売人になろうとさえ考えていました。全てがどうでもよかった。何もかもが面倒だった。

そんな時です。弁護士の先生を通じて心理カウンセラー、そしてダルクと繋がる事になりました。母親からも手紙が来ました。「私は怒っています。情けないし、私自身を否定したくなる。今度こそ更生してください。心から願っています。」そう悲痛な声が綴られていました。私は自分のことしか考えず、一方的に縁を切ってくれという手紙を出したにも関わらず、家族は私を見捨てませんでした。

そのことがあって以降私は再び「薬をやめ続けていきたい」と思うようになりました。自分一人の力では薬をやめ続けることは出来ない、そして自分の持っている問題と向き合わなければ、また同じことを繰り返すであろうことに思い至ります。それから刑務所での一年間は「なぜ薬を使ってしまうのか?」そして「どうしたら薬をやめ続けることができるのか?」について考えました。自分を省みた時、私の本当の問題は薬にあるのではなく、プライドの高さや、人に弱さを見せられない性格等、自分を追い込む傾向があり、結果として薬に逃げていたのです。自分の弱さ、臆病さ、問題を話せる環境、仲間が欲しかった。そして出所後は木津川ダルクに入寮する決意をしたのです。

今私は入寮して7カ月を迎えようとしています。入寮当初は毎日イライラしていました。将来の生活への不安や仲間との関係、思い通りにならないことばかりです。イライラをため込み、しんどく感じる毎日でした。ですが、ダルクのプログラム、NAのミーティングに取り組んでいると、正にその感情が私の問題であると気付けたのです。今はそのような負の感情をミーティング、仲間とのフェローシップ、そしてダルクのスタッフに話すよう心掛けています。そして、仲間の話に耳を傾けること、共感すること、自分も仲間も同じなのだと思えること。その事に勇気をもらっています。ご飯を一緒に作ったり、そうじをしたり、ヨガに取り組んだり、プログラムに取り組むにつれて少しずつ「自分は一人ではない」と思うことが出来るようになりました。

ダルクに入ってからの6カ月で、多分私は何も変化していませんし、成長もしていません。

薬を使用したくなる事は今はまだありませんが、相変わらず自分勝手な考えで行動することもあります。ですが、そんな折、仲間の存在が私を少し立ち止まらせてくれます。私は今、仲間と共に回復の道を歩き始めたのです。

「JUST FOR TODAY」今日一日一所懸命に。仲間と共に。
イライラする日、不安に感じる日、悲しい日、怒っている日、いまだ様々な感情に翻弄される私ですが、日々自身と向き合い、仲間と共に回復の道を進みます。

そして、いつか自然に笑える本当の自分を取り戻せる日が来ると信じています。

アパリ東京本部ニュースレターNO.89