生きながらスピリチュアルな死に向かっていた

皆さんこんにちは、依存症のユウと申します。
これから僕の話を少し読んでいただければと思います。初めましての方も僕のことをご存じの方もどうぞよろしくお願い致します。

僕がダルクに初めて繋がったのは23歳の時、東京ダルクに入所しました。それから2年ぐらい生活を送りましたが、クリーン1年を過ぎて就労に入ったのですが、なかなかうまくいかず、また薬物への欲求が高まっていきました。そんな時、施設長に相談をして、施設移動をすることを選びました。向かった先は京都ダルクです。ここでも2年ぐらいを過ごしました。京都ではアルバイトを1年ぐらいして、アルバイトの人間関係が嫌になりやめてしまいました。それから京都ダルクに通所で通いました。その頃、京都ダルクでは障害福祉サービス事業の生活訓練事業を開始しようとしていて、人員が足りなくてスタッフとして働かないかと声をかけていただきました。僕は少し考えさせてくださいと答えて、スポンサーとも相談をして、スタッフとして働かせていただくことを決めました。

それから、十数年働かせていただいていたのですが、部屋の引っ越しをして、部屋の近くの商店街を散策していた時に、パチンコ屋が目に留まりました。普段なら、パチンコも依存するからやってはいけないと自分に言い聞かせていたのですが、その時は何も考えず、「すこしだけなら」と、スロットをしました。今から思えばたまたま勝って、僕は薬物を最初に使ったとき以来の衝撃といいますか、こんないいものがあったのかと、時間も潰せてお金も増えるし最高だと思い、すぐにハマっていきました。それ以来パチンコ屋に通い続ける生活が始まりました。

一ヵ月も経たないうちに給料を使い切りました。嘘をついてお金を借たり、コントロールして毎月ギリギリの生活をしていました。その結果、消費者金融に借金をするようになり、どんどん病気は悪化していきました。借金のことを職場で正直になり金銭管理をしてもらい借金を返し終わったのですが、それからまた依存症の病気のままに動くようになっていきました。もう仕事も手につかなくなりはじめて、おととし職場を退職し、さらに依存症は進行していきました。もうどうしようもならない状態とパチンコ屋に通うことを続けるしかないと自分に言い聞かせてしばらく過ごしていたときに、ある方に連絡をしないといけないことを思い出して連絡を取ったのですが、僕の状況を知ったとあるカフェ方が、「今すぐに来なさい」と言ってくれて、僕はすぐにそのカフェに行きました。その時の状況などを話したところ、力になれることがあったら力になるよと言ってもらうことができました。生活保護の手続きや部屋の引っ越しなど、協力してくれました。その後、カフェの手伝いをしながら、僕自身相変わらず病気を出しつつ、それでもそんな僕と付き合ってくれていました。カフェでは色々な人と触れ合うことができるようになっていきました。それまでの僕は、周りに嘘をついていく間に、自分自身にも嘘をつくようになりその場を取りつくろうようになっていましたが、少しずつそんな自分と向き合うことができて、楽になりました。色々なしがらみやそんな自分から解放されていったように思います。

カフェに通う生活も1年ぐらい経った頃、僕の病気(依存症)はさらに進行していて、相変わらず、スロットが止められずに生活が再び破綻していきました。所持金は150円になり、もう嘘や言い訳、とりつくろうことや演じる事が嫌になりました。そうなって、木津川ダルクのスタッフの方に「助けてください」と連絡を取ることができました。その時、すぐに「受け入れるよ」と言ってもらうことができて、安心したのを覚えています。連絡をした次の日に、スタッフの方と合流して木津川ダルクに向かいました。前日ほとんど食事も取っていなくて、スタッフの方がパンをくれたのですが、本当に嬉しかったです。今でも覚えています。それから木津川ダルクでの生活が始まりました。

木津川ダルクでは朝、昼、施設内ミーティングをして夕方から自助グループに参加するのが基本的なプログラムで、その他、日々の施設内の掃除、昼食、夕食作りや月一回のヨガなどのプログラムがあります。一日三回のミーティングに参加するのは久しぶりで、最初にミーティングに参加して自分の話をすることが苦手だった頃を思い出しながら、ミーティングの雰囲気に安心して「またやり直そう」と思えました。初めて出会う仲間や知っている仲間がいて、やっと戻ってくることができたと思いました。日々の生活にもすぐに慣れていき、元々料理作りが好きだったので、仲間と作る昼食や夕食は楽しいし、美味しく頂けることがとても嬉しく思っています。ミーティングや掃除、洗濯など、日々のプログラムを通して、気持ちも落ち着いていきました。

本当にここ数十年を振り返ると、色々な事柄があって、自分自身、依存症からの回復を目指してきてはいたのですが、僕の病気はずっと進行していたかのように思います。もちろん途中で気づいてやり直して、また進行してやり直しての繰り返しでしたが、僕自身の成長がありませんでした。回復と成長という言葉をよく耳にしていましたが、ある程度回復したときに、それから先どのようにしたらいいのか分からなくなって、これだけ回復したのだからこれぐらいいいだろうという、病気の声みたいなものを聴くようになって、僕自身都合のいいように病気の自分と回復を演じる自分を使い分けるようになっていました。二人の自分を操るもう一人の自分が出来上がって、その自分が本来の自分なのだと言い聞かせて長い間日々を過ごしてきたのだと思いました。自助グループのプログラム「12ステップ」がありますが、スポンサーからステップを手渡していただいたのですが、僕はただ使い方だけを教わって、実際にステップを使って生活をするということができないままでした。だから成長とは程遠いところにいて、病気のままの自分で時が止まっていたかのように思います。

木津川ダルクでの生活を通して、色々な事、自分自身について、12ステップ、回復と成長、仲間の大切さなどを改めて気づかされています。それから、僕はいつの間にか色々な自分を演じている間に生きながらスピリチュアルな死に向かっていたように思います。本当は苦しくて惨めで虚しさだけが、僕の中にありました。それを埋めるために病気を使って埋めていました。当然、埋まらないからいつか埋まるまでと病気を続けることを選んでいました。病気では埋まらないことが解ったといいますか、本当は解っていたけど病気を続けたいと思っていたように思います。それが叶わないことだということがやっと解ったと思います。仲間との共同生活で、病気ではなく、仲間の温かさや思いやりが空いてしまった穴みたいなものを埋めてくれていることを実感しています。まだまだ、自分の欠点や欲求が出て古い生き方に戻りそうになりますが、仲間と共に回復と成長をしていけたらと日々思っています。

これまで、僕がどうしようもならなくなった時に、色々な方が声をかけてくれたり、関わって受け入れてくださったことを本当に感謝しています。生活が安定してくるとすぐに感謝を忘れてしまうのも正直な自分ですが、これからは、忘れないように日々プログラムに取り組みながら、新しい自分になれたらと思っています。最後になりますが、これまで僕の話を読んで下さりありがとうございました。

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