東九条ボランティア清掃に、木津川ダルクから5名が参加しました。

当日は地域の皆さまと協力しながら清掃活動を行い、歩道や植え込みのゴミを丁寧に拾い集めました。今回は、前回よりも明らかに綺麗になっている場所があり、この活動が地域にしっかりと効果をもたらしていることを実感しました。

参加者同士で声を掛け合い、笑顔で作業に取り組む中で、地域の方々から温かい言葉もいただき、自然と交流が生まれました。こうした場を通じて、依存症に対して持たれがちな「薬物=怖い」「関わってはいけない」という偏見が少しでも和らぎ、正しい理解につながるきっかけになればと願っています。

そして、いつもこのような企画をしていただいている『京都市多文化ネットワークサロン』の皆様、いつもありがとうございます😊

 

心の「見えない電池」の話 ~私たちが大切にしているスピリチュアリティーって?~

みなさんは、「スピリチュアル」という言葉を聞くと、どんなことをイメージしますか?

幽霊が見えるとか、ご先祖様の声が聞こえるとか、超能力のような不思議な世界を想像する人が多いかもしれません。でも、私たちが回復のために大切にしている「スピリチュアリティー」は、それとはまったく違うものなんです。

今日は、薬物依存から回復しようとしている私たちが、一番大切に育て直そうとしている「心の話」を書きたいと思います。

当たり前の「ありがとう」を感じる力

私たちが考えるスピリチュアリティーとは、「日常の中で感じる、温かい心の働き」のことです。

たとえば、

* ラーメンを食べたときに「おいしいな、ありがたいな」としみじみ思うこと。

* 困っている友達を見て「大丈夫かな?」と心配したり、優しくしたいと思う気持ち。

* 夕焼けを見て「きれいだな」と感動したり、今の季節の風を感じて心地よいと思うこと。

* 自分が完璧じゃないことを認めて、「ま、ええか」と謙虚になること。

これらは全部、目には見えないけれど、生きていく上でとても大切な力ですよね。私たちは、この「目に見えないけれど大切なものを感じる心」を、スピリチュアリティーと呼んでいます。いわば、「心の健康」や「魂の回復」と言い換えてもいいかもしれません。

薬局には売っていない「薬」

心や体の調子が悪い時、病院に行ってお薬をもらうことがありますよね。

確かにお薬は、不安でドキドキする気持ちを落ち着かせたり、爆発しそうな怒りを静めたりする役目があります。それはとても大切なことです。

でも、世の中には「人を信じられるようになる薬」や「人に対して『ありがとう』と言いたくなる薬」はありません。

どれだけ科学が進歩しても、「人とのつながり」や「温かい感情」を取り戻す錠剤は作れないのです。こればかりは、人と関わり、支え合う中でしか手に入りません。

傷ついた心を、もう一度温める

薬物に頼ってしまった人の多くは、子供の頃にとても辛い思いや、寂しい経験をしています(これを「幼少期の逆境体験」と言います)。

安心して甘えられなかったり、守ってもらえなかったりした経験があると、先ほど話した「人を信じる心」や「感謝する心」というスピリチュアリティーの成長が、そこで止まってしまったり、傷ついてしまったりするのです。

大人になっても、心の奥底が冷えてしまっているような状態です。

だからこそ、私たちはもう一度、社会の中で「ありのままの自分」で生きていくために、このスピリチュアリティーを回復させる必要があります。

つながりの中で育つもの

では、どうやって回復させるのでしょうか?

それは、「人とのつながり」の中にあります。

同じ悩みを持つ仲間と話をしたり、お互いに助け合ったりする。そんな体験を積み重ねることで、止まっていた心の成長がまた動き出します。

「一人じゃないんだ」と感じられた時、初めて人は心から「ありがとう」と思えたり、自分以外の誰かを大切に思えたりするようになります。

薬をやめることは、もちろん大切です。

でも、それ以上に大切なのは、この「人間らしい温かい心(スピリチュアリティー)」を取り戻すこと。

特別な超能力なんていりません。

ただ、きれいな空を見て感動したり、人の優しさに感謝できたりする。そんな「当たり前の幸せ」を感じられる心を取り戻すことが、私たちにとっての本当の回復なのです。

私たちと一緒にクリスマスを過ごしてみませんか?

「命を救う」。私たちがその言葉を恐れてはいけない理由

福祉や支援の現場では、近年「支援者が利用者を『救う』と言うのはおこがましい」という議論があります。

「対等ではない」「上から目線だ」「本人の力を奪う」などなど。確かに、それらは一理あります。教科書的には正解なのでしょう。

しかし、あえて言わせて頂きます。

薬物依存症回復支援の現場において、「命を救う」という表現は、紛れもなく適切であり、必要な言葉です。

なぜなら、薬物依存症は「死に至る病」だからです。

孤立し、社会から排除され、自暴自棄になった当事者の行き着く先は、刑務所か、精神科病院か、あるいは死です。

オーバードーズ(アルコールも含む)で意識を失っている時、真冬の路上で行き場を失っている時、絶望して自ら命を絶とうとしている時。

そこで必要なのは「見守る」ことでも「エンパワメント」することでもありません。

まずは、物理的にその命を「死」の淵から引き戻すことです。

生きていなければ、回復はありません。

生きていなければ、自立も、反省も、やり直しもできません。

その「生きるための最低条件」が崩れ去ろうとしている時、私たちが手を伸ばして繋ぎ止める行為は、まぎれもなく「救命」です。

私たち支援者は、神様でも救世主でもありません。他者の人生をコントロールすることはできません。

しかし、溺れている人に浮き輪を投げることはできます。

冷たい社会の海で溺れかけている仲間に、「ここなら、とりあえず息ができるぞ」と場所を提供することはできます。

「救うなんておこがましい」と躊躇している間に、失われてしまう命があるのです。

だから私たちは、胸を張って言います。

私たちは、命を救っています。

回復という長い旅路は本人の足で歩むものですが、そのスタートラインに生きて立たせること。今日一日、回復の居場所を提供すること。それこそが、私たちの誇りであり、使命なのです。

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